1913~34年にかけてドイツの首都ベルリンに建設された6件の集合住宅(ドイツ語でジードルング)団地を登録した世界遺産。「近代建築の4大巨匠」のひとりに数えられるヴァルター・グロピウスをはじめブルーノ・タウト、マルティン・ヴァグナー、ハンス・シャロウンといったモダニズム建築の巨匠によって都市計画・建築・公園・庭園デザインに関して新たなアプローチとしてノイエス・バウエン(ワイマール時代の近代建築運動)が提案され、世界の住宅開発に多大な影響を及ぼした。
19世紀まで、数多くの領邦(諸侯や都市による領土・国家)が並立していたドイツだが、1871年にプロイセン王国を中心にドイツ帝国として統一された。いきなり第2次産業革命を達成すると覇権国家イギリスをも超える工業国に発展し、首都ベルリンはインフラが間に合わないほどに拡大した。1800年に17万人にすぎなかった人口は1850年に40万、1900年に190万まで膨れ上がり、1925年には400万人を超えた。橋・道路・下水道・地下鉄・鉄道などの整備が急ピッチで進められ、集合住宅が次々と建設された。しかし、過度に密集したテラスハウス(境界壁を共有する長屋のような連続住宅)やタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)の環境は劣悪で、緑が存在しない過密住宅のひと部屋に5人以上が暮らすという状況も珍しくなかったという。こうした状況に対するアンチテーゼとして緑あふれるガーデンシティや開放的なオープン・ハウジングといった構想が発案された。その先駆けとなったのがタウトが設計したテラスハウス、ガルテンシュタット・ファルケンベルクだ。
第1次世界大戦(1914~18年)の敗戦後、ドイツ帝国が滅亡してワイマール共和国が成立した。帝政から共和政に移行して民主化が進んだ結果、労働条件の改善や新しい都市計画が進められ、住環境についても改善が図られた。住宅不足に悩むベルリンでは戦後の一時、住宅建設が停止されていたが、政府主導で建築法や税制の改革を進めて1924年に再開された。これを主導したのが都市評議員だったルートヴィヒ・ホフマンとマルティン・ヴァグナーで、特に建築家だったヴァグナーが集合住宅団地の建設を推進した。1924~31年の間に146,000棟もの集合住宅が建設されたが、建物の密度は戦前に比べて大幅に低下し、都心では5階建て、郊外では2~3階建てが認められて高層化が進められた。こうした開発はナチス=ドイツが政権を握るまで続けられた。
この時代の建築スタイルは「ノイエス・バウエン(新建築)」と呼ばれるもので、オランダのデ・ステイル、ドイツのバウハウスで発達したモダニズム建築の流れを受けたものとなった。鉄骨や鉄筋コンクリート、ガラスといった新素材を多用し、シンプルな直線で構成された合理的なデザインで、完成された部品を現地で組み立てるプレハブ工法などを特徴とした。強力な鉄骨や鉄筋コンクリートによって柱や梁(はり。柱の上に水平に置く横架材)・スラブ(鉄筋コンクリートによる板構造)で上部構造を支えられるため壁は不用になり、ファサード(正面)や平面は自由にデザインされた。このためガラス面を大きく取り、部屋割りを自由に行うことで明るく機能的な空間が確保された。また、立方体・直方体の形状がそのままデザインになるため装飾を必要とせず、プレハブ工法であるため建設期間は短く、部品は標準化され共用されたため安価に抑えられた。また、団地や都市としての景観や環境も重視され、公園や庭を含んだ景観設計や住環境の充実が図られた。
1933年以降のナチス=ドイツの政権下ではモダニズムもノイエス・バウエンも求められず、ヴァグナーは辞任してタウトを誘ってトルコに亡命し、グロピウスもイギリスに亡命した。ただ、破壊や改変もほとんど行われず、郊外であったためふたつの大戦による被害も少なくほぼ無傷で維持された。
世界遺産の構成資産はガルテンシュタット・ファルケンベルク、ジードルング・シラーパルク、グロースジードルング・ブリッツ、ヴォーンシュタット・カール・レギーン、ヴァイセ・シュタット、グロースジードルング・ジーメンスシュタットの6件で、モダニズム建築として重要であるだけでなく、ワイマール共和国の住宅政策を証明するものとなっている。
ガルテンシュタット・ファルケンベルクはタウトの設計で1913~16年に建設された集合住宅団地で、23戸のテラスハウス、8棟の集合住宅、2棟の半戸建て、1棟の一戸建てで構成されている。景観設計はランドスケープ・アーキテクト(景観設計家)であるルートヴィヒ・レッサーが担当し、住宅群は緑の路地や公園の中に配された。タウトは単調な景観にならないように建物を一列に規則的に並べるようなことはせず、不均一に配置しつつ木々や生垣によって視線を誘導し、テラスハウスも各戸ごとに赤・茶・黄・緑・青などで塗り分けて演出した。テラスハウスでは各戸に庭園が用意され、作物を栽培できるように配慮された。多くの建物は木造屋根で「∧」形の切妻屋根を持ち、南面に大きな窓が据えられている。
ジードルング・シラーパルクもタウトの設計で1924~30年に建設された。一帯にはこの時代に303棟の集合住宅が建設されたが、そのうちの15棟が資産に登録されている。「□」形の四辺に集合住宅を配し、中央に中庭を持つ構成で、そのような団地が3ブロック築かれた。周辺は広大な公園で、中庭は閉じられていないオープンな造りでやはり緑で彩られている。集合住宅は赤レンガの壁を持つ3~4階建てで、バルコニーなど所々に入った白の塗装(漆喰)がモダンな外観を与えている。屋根は平らな陸屋根で南面に大きな窓を持ち、各戸の北面にバルコニーあるいはロッジア(柱廊装飾)と階段・共同洗面所といった共有スペースを備えている。戦後の1954~59年にハンス・ホフマンによって拡張されている。
グロースジードルング・ブリッツはベルリンの都市計画担当官であるヴァグナーとランドスケープ・アーキテクトであるレベレヒト・ミッゲが計画した住宅プロジェクトで、タウトが設計を担当した。一帯のシンボルとなっている「Ω」の馬蹄形集合住宅は、白と青を基調とした3階建ての住宅ユニットを25棟連ねた全長350mの集合住宅で、各戸は中庭側にバルコニーや階段を備え、外側には大きな窓が確保されている。中庭は中央の池と共有庭園のほか、各戸にプライベートな庭が用意されている。資産には馬蹄形集合住宅以外にも数多くの集合住宅やテラスハウスが含まれており、それぞれ同型・同色のユニットを連ねて列やひし形・三角形などの住宅ブロックを形成している。基本単位となるユニットは多彩で、2~3階建てで赤・茶・黄・緑・青などの色で塗装されており、基本的に庭側にバルコニーと階段を備えている。
ヴォーンシュタット・カール・レギーンはフランツ・ヒーリンガーが計画してタウトが設計した集合住宅団地で、1928~30年に建設された。これまでの団地と比較してより狭い土地に密集した形で築かれており、4~5階建ての住宅ユニットを連ねて「コ」形の集合住宅ブロックを形成し、計6.5ブロックが配されている。中庭は木々や芝生で覆われており、各戸は中庭側に階段とバルコニーを持ち、外側に大きな窓を備えている。周辺に公園はないが、道路に沿って並木道や花壇が設けられており、より都市型の集合住宅団地となっている。
ヴァイセ・シュタットはヴァグナーの指揮の下でブルーノ・アーレンツ、ヴィルヘルム・ビューニング、オットー・ルドルフ・ザルヴィスベルクらによって設計され、1929~31年に建設された。「白い街」の名前の通り白を基調とした3~4階建ての集合住宅団地で、3人はそれぞれエリアごとにデザインを担当した。西に連なる集合住宅はアーレンツの設計で、白い壁とレンガのフレーム、庭に面したロッジアが特徴を与えている。平屋の児童養護施設もアーレンツの設計だ。ビューニングは特徴的な台形の集合住宅団地の設計を担当している。一方、ザルヴィスベルクはアロザー通りの上を横断するように立つ集合住宅や北側の一帯を設計した。集合住宅は開放的で庭や並木道に隣接しており、庭は人々が行き来できるオープンスペースとなっている。
グロースジードルング・ジーメンスシュタットはヴァグナーの管理下でシャロウンが都市計画を立案し、グロピウスをはじめフレッド・フォルバット、オットー・バルトニング、パウル・ルドルフ・ヘニング、フーゴー・ヘーリングらが設計を担当し、ランドスケープ・アーキテクトのレベレヒト・ミッゲが景観設計を行って1929~34年に建設された。2~4階建てで白を基調とし、庭に挟まれ、バルコニーや階段を備えている点は共通ながら、集合住宅ごとに担当建築家がそれぞれ独自のデザインを行った。同一の住宅ユニットを連ねて列をなす集合住宅群で、もっとも長い集合住宅はバルトニングが担当したもので、ゲーベル通り沿いに400m超にわたって緩やかな弧を描いている。バルコニーの一部にレンガを使用し、赤をポイントで用いるなど特徴的なデザインを見せている。一方、ユングフェルシンハイテ通りの西に240mにわたって伸びる集合住宅はグロピウスの設計で、直線とモノトーンで構成された無駄のないシンプルかつ合理的なデザインとなっている。それに対してヘニングは黄色や灰色といった自然と調和する色彩を採用しており、対照をなしている。西側にバルコニーや階段を配したのもヘリングだけだ。南西の扇形の集合住宅はシャロウンの設計で、円形の窓や段差のある窓、バルコニーなどで船の形を模しており、「装甲巡洋艦」の異名を持つ。ミッゲは集合住宅との調和を考慮して公園や庭をデザインするたけでなく、待ち合わせ場所や遊び場を備えたグリーン・センターやゴミ捨て小屋といった公共施設のデザインも行った。
ベルリンの6つの集合住宅団地はベルリンの住宅と生活条件の改善に決定的に寄与した広範な住宅改革運動の卓越した証拠を提示している。それらの都市・建築・庭のデザインの質の高さと、同時代に開発された住宅基準は以降のドイツ内外の公共住宅の指標となった。
ベルリンの6つの集合住宅団地は社会生活状況の改善を求めて設計された新しい都市と建築の類型の際立った例である。斬新なデザイン・ソリューションと技術的・美的革新が設計・建設に参加したモダニズム建築家らによってもたらされた。
6件の構成資産は市内に点在するワイマール共和国時代の集合住宅団地の中から歴史的・建築的・芸術的・社会的重要性と第2次世界大戦の被害状況を考慮して選択された。戦後、小規模な改修や内装の変更は行われているが、1975年の保護法の枠内での修復作業と現在の保全状況により完全性と真正性は高いレベルで保持されている。特に歴史的建造物と記念碑の保護に関する1995年制定のベルリンの条例によって適切な保護が担保されており、団地・建築・オープンスペースのいずれも良好な保全状態を維持している。政策・構造・計画を含む管理システムは適切であり、関係するすべての利害関係者が含まれていることが確認されている。
6件の構成資産はいずれもオリジナルの形状・素材・構造が維持されている。ナチス=ドイツ時代はヴォーンシュタット・カール・レギーンの一部のファサードが塗り直されたのみであり、いずれも郊外に位置していたことから第2次世界大戦の被害もほとんど受けていない。ごく一部について、戦後再建されている部分も存在するが、詳細な調査・研究を行い、同じ素材・形状で忠実に復元されている。もっとも大きな被害があったのはシーメンスの工業団地の近くに位置するグロースジードルング・ジーメンスシュタットだが、これについても同様である。一部についてシャロウンが再設計しているが、周囲と調和しており連続性は維持されている。