トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会

Roman Monuments, Cathedral of St Peter and Church of Our Lady in Trier

  • ドイツ
  • 登録年:1986年
  • 登録基準:文化遺産(i)(iii)(iv)(vi)
世界遺産「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会」、聖ペテロ大聖堂(左)と聖母教会(右)の西ファサード。聖ペテロ大聖堂はウェストワーク
世界遺産「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会」、聖ペテロ大聖堂(左)と聖母教会(右)の西ファサード。聖ペテロ大聖堂はウェストワーク
世界遺産「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会」、ポルタ・ニグラ
世界遺産「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会」、ポルタ・ニグラ。建設当初は北門、中世には教会堂として使用されていた
世界遺産「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会」、皇帝浴場
世界遺産「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会」、皇帝浴場。ローマ帝国第3の浴場とされ、壁の高さは19mに及ぶ
世界遺産「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会」、モーゼル川のローマ橋
世界遺産「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会」、モーゼル川のローマ橋。上部構造はたびたび修復されているが、9基の橋脚は2世紀のものだ
世界遺産「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会」、アウラ・パラティーナ
世界遺産「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会」、アウラ・パラティーナ。左の円柱形の張り出しはアプス
世界遺産「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会」、アンフィテアトルム
世界遺産「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会」、アンフィテアトルム。地下空間が広がっており、剣闘士や動物を収める控え室や倉庫が連なっている
世界遺産「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会」、聖母教会の身廊の見事なゴシック空間
世界遺産「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母教会」、聖母教会の身廊の見事なゴシック空間 (C) 55Laney69

■世界遺産概要

トリーアはルクセンブルク国境に近いドイツ・ラインラント地方ラインラント=プファルツ州西部の都市で、ローマ時代には「アウグスタ・トレヴェロルム」と呼ばれていた。「北のローマ」「第2のローマ」と呼ばれるガリア(イタリア北部からフランス、スイス、ベルギーに至る地域)の中心都市として繁栄し、ドイツ最古の大聖堂である聖ペテロ大聖堂はキリスト教布教の中心を担った。世界遺産の構成資産はローマ時代に創建されたアンフィテアトルム(円形闘技場)、モーゼル川のローマ橋、バルバラ浴場、イゲルの円柱、ポルタ・ニグラ、皇帝浴場、アウラ・パラティーナ、聖ペテロ大聖堂、聖母教会の9件。

○資産の歴史

トリーアの地には新石器時代から人間の居住の跡があり、ローマ時代以前にはケルト人の都市トレヴェリがあったと伝えられている。カエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル/シーザー)がガリア平定を目指して紀元前58~前51年に行ったガリア戦争で共和政ローマの支配下に入り、ローマ帝国(帝政ローマ)がはじまった皇帝アウグストゥスの時代にモーゼル川の東岸に植民都市アウグスタ・トレヴェロルムが建設された。これが後のトリーアで、一説ではドイツ最古の都市とされる。

町が本格的に整備されはじめたのは第4代皇帝クラウディウスの治世の41~57年とされ、2世紀半ばまで拡大が続いた。ローマ時代の城壁は全長約6,500mで47以上の塔を持ち、内部は東西を結ぶデクマヌス・マクシムスと南北を貫くカルド・マクシムスという2本の幹線道路を中心に方格設計(碁盤の目状の都市設計)の整然とした街並みが展開した。中心には公共広場フォルムがあり、東西南北にそれぞれポルタ・アルバ(白門)、ポルタ・インクライタ(正統門)、ポルタ・メディア(中央門)、ポルタ・ニグラ(黒門)が設置された。代表的な建物としては、中央の皇帝浴場やヴィーマルクト浴場、東のアンフィテアトルムやキルクス(多目的競技場)、西のバルバラ浴場やアスクレピオス神殿、ローマ橋、南のアルプバフタール神殿などが挙げられる。やがてアウグスタ・トレヴェロルムはガリアの中心的な交易都市となり、ミラノ、リヨン、ボルドー、ロンドンなどを結んで商業で繁栄した。

帝国各地の軍人が皇帝を僭称した軍人皇帝による「3世紀の危機」では、ポストゥムスが皇帝を称してガリア帝国を建て、アウグスタ・トレヴェロルムに都を置いた。この時代にゲルマン系諸民族の移動が活発化し、ローマ帝国の防衛ラインであるライン川に近いアウグスタ・トレヴェロルムは軍事的にきわめて重要な要衝となっていた。ポストゥムスは民族移動に対する防波堤となってガリアを守り、「ガリアの回復者」と呼ばれた。その繁栄と重要性からこの頃から町は「第2のローマ」と評された。

軍人皇帝時代を終わらせて中央集権を成功させた皇帝ディオクレティアヌスはその末期、広大なローマ領を4分割し、ふたりの正帝(アウグストゥス)とふたりの副帝(カエサル)を置いてテトラルキア(4分治制)を敷いた。西方正帝コンスタンティウス・クロルスはアウグスタ・トレヴェロルムを首都とし、ガリアやブリタンニア(現在のイギリス南部)を統治した。

コンスタンティウス・クロルスの息子がコンスタンティヌス1世で、やはりアウグスタ・トレヴェロルムを拠点とした。父が亡くなると正帝を名乗って他の正帝や副帝と対立したが、次々と打ち破って324年に帝国を統一し、テトラルキアを終わらせた。それまでキリスト教はしばしば弾圧の対象となっていたが、統一の過程でコンスタンティヌス1世はキリスト教を認め、313年のミラノ勅令で公認した。これを受けて建設された教会堂がドイツ最古の大聖堂である聖ペテロ大聖堂と聖母教会だ。また、コンスタンティヌス1世は町の再整備を進め、後にアウラ・パラティーナとなる宮殿バシリカ(集会所)や皇帝浴場などを建設した。

ゲルマン系民族の移動はさらに激化し、コンスタンティヌス1世は330年に首都をローマ(世界遺産)からビザンティオンに遷し、新首都コンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)を建設した。その後も息子コンスタンティウス2世やウァレンティニアヌス1世、グラティアヌスといった皇帝はアウグスタ・トレヴェロルムを居城としたが、最前線に位置していたことから5世紀はじめにはガリアの都はフランス南部のアルル(世界遺産)に遷された。この後、町はしばしばゲルマン系フランク人の攻撃を受けて破壊され、急激に衰退した。

ローマ皇帝テオドシウス1世は395年に帝国をふたりの息子に分け与え、コンスタンティノープルを首都とするビザンツ帝国(東ローマ帝国)と、ミラノを首都とする西ローマ帝国に分割された。西ローマ帝国は476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって滅亡し、同じ頃、アウグスタ・トレヴェロルムもフランク人によって落城した。この後もフン帝国の侵略やフランク人による奪還などが行われて町は荒廃した。フランク王国の時代に繁栄を取り戻すが、9世紀にノルマン人のいわゆるヴァイキングによる襲撃を受けてほぼ完全に破壊された。

○資産の内容

世界遺産の構成資産はローマ時代創建の9件。

2世紀に建てられた「アンフィテアトルム(円形闘技場)」は20,000人を収容する楕円形の闘技場で、アウグスタ・トレヴェロルムの東端に位置し、一時は東門と城壁を兼ねていた。かつては剣闘士や猛獣による戦いが繰り広げられたが、現在は屋外ホールとしてコンサートや演劇の会場として使用されている。

全長約200mの「モーゼル川のローマ橋」は3代目といわれ、最初の橋は木造で紀元前18年頃、2代目は石橋で1世紀半ば、3代目の石橋は2世紀半ばに建設された。アーチや橋桁は何度か破壊されているが、9基の橋脚はローマ時代のものが伝えられている。

「バルバラ浴場」は2世紀後半に建設された公衆浴場で、かつては240×172mの敷地と172×96mの建造物があり、ローマ帝国有数の規模を誇った。内部には温泉・冷泉・サウナ室といった各種温泉施設のみならず、休憩室や食堂・バー、屋内運動施設パライストラ、屋内競技場ギムナシオンなどを有する複合的な娯楽・療養・運動施設だった。

「イゲルの円柱」はトリーア南西の町イゲルに立つ高さ約23mの赤砂岩製の円柱で、3世紀に建てられたと考えられている。ルシウス・セクンディニウス・アヴェンティヌスとセクルス兄弟によって建てられた墓碑で、柱には神話や当時の生活の様子を描いた見事なレリーフが彫り込まれている。

「ポルタ・ニグラ(黒門)」は2世紀末に築かれた北門で、最大6tに及ぶ灰色砂岩の切石約7,200個が使用されている。宮殿建築を門に応用した特徴的なデザインで、長方形の平面プランで中央に中庭がある。11世紀から聖シメオン教会として使用され、屋根に塔、東に円柱形に張り出したアプス(後陣)が取り付けられるなど門を覆う形で増改築された。19世紀にトリーアを占領したフランスのナポレオンは隣接していた修道院と教会を解散させ、ポルタ・ニグロに取り付けられていたローマ時代以降の構築物もアプスを除いて撤去され、おおよそローマ時代の外観を取り戻した。

「皇帝浴場」は3~4世紀に建設された宮殿の付属浴場で、コンスタンティヌス1世の時代に完成した(あるいは未完成で放棄された)。約250×145mを誇る建造物はローマン・バス(ローマ浴場)としてはローマのディオクレティアヌス浴場、カラカラ浴場(いずれも世界遺産)に次ぐ大きさを誇り、バルバラ浴場と同様にさまざまな施設・設備を備えた温泉コンプレックスとなっていた。

「アウラ・パラティーナ(コンスタンティヌス・バシリカ)」はコンスタンティヌス1世が4世紀前半に建設した宮殿のバシリカで、全長67m・幅27.5m・高さ33mを誇る。その重厚な造りから中世はじめには城塞、中世後期から近世にかけては大司教宮殿として使用された。19世紀、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はキリスト教皇帝コンスタンティヌス1世の時代のバシリカに戻すためにバロック様式の改修部分などの撤去を命じ、ローマ時代の姿がおおよそ回復した。また、1856年にはプロテスタントの教会堂となっている。第2次世界大戦中の1944年、アメリカ軍の空襲によって大きな被害を受け、内部の祭壇や礼拝堂・内装はほとんど破壊された。戦後修復されたが、内部が復元されることはなかった。

「聖ペテロ大聖堂(トリーア大聖堂)」はコンスタンティヌス1世のキリスト教公認を受けて建設されたドイツ最古の大聖堂で、司教マクシミンによって4世紀前半に建設された。当時はバシリカ・洗礼堂・回廊・聖母教会などを有する現在の数倍の規模を持つ巨大な教会コンプレックスで、キリスト教布教の中心となった。これらは4世紀のフランク人、9世紀のヴァイキングの襲来でほとんど破壊された。現在見られるロマネスク様式の建物は11世紀前半に司教エグベルトによって再建されたもので、アプス(後陣)は12世紀末にようやく完成した。ただ、基礎や北側のレンガ壁など一部はローマ時代の構造を引き継いでいる。その後もゴシック様式の天井やルネサンス様式の彫刻、バロック様式のスタッコ(化粧漆喰)細工など時代時代の改修を受けており、多彩なスタイルが混在している。外観は非常にユニークで、「†」形のラテン十字形・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の教会堂をベースに、西に巨大なウェストワーク(ドイツ語でヴェストヴェルク。教会堂の顔となる西側の構造)を備えている。ウェストワークは2基の角楼と2基のピナクル(壁から上に伸びる塔)の計4基の塔を持ち、中央にクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)が入った円柱形のアプスが張り出している。ウェストワークや西アプス、ポリクロミア(縞模様)のアーチ、ドワーフ・ギャラリー(柱廊装飾)などはラインラントとその周辺に多い特徴的なデザインだ。また、東端には半円形・円形の二重のアプスがあり、クワイヤと内陣が入っており、両脇に双塔が立っている。

「聖母教会(リーブフラウエン教会)」はコンスタンティヌス1世の時代に築かれた聖ペテロ大聖堂教会コンプレックスに含まれていた教会堂で、大聖堂と南北に並んでいた。現在見られる教会堂は13世紀半ばにゴシック様式で建て替えられたものだ。こちらのデザインも非常にユニークで、全体は円形・集中式(有心式。中心を持つ点対称かそれに近い平面プラン)で、円の内部に「+」のギリシア十字形の構造が埋め込まれており、東にアプスを取り付けてラテン十字形を形成している。外から見ると中央にクロッシング塔(十字形の交差部に立つ塔)を持つラテン十字形の教会堂だが、内部は円形で、周囲を取り囲むステンドグラス群によって明るく美しい空間を演出している。内部には8つの祭壇があり、アプスはクワイヤとなっている。ローマ時代の要素はほとんど見られないが、基礎としてローマ時代の遺構が使用されている。

■構成資産

○アンフィテアトルム(円形闘技場)

○モーゼル川のローマ橋(モーゼル橋)

○バルバラ浴場

○イゲルの円柱

○ポルタ・ニグラ(黒門)

○皇帝浴場

○アウラ・パラティーナ(コンスタンティヌス・バシリカ)

○聖ペテロ大聖堂(トリーア大聖堂)

○聖母教会(リーブフラウエン教会)

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

4階建てのふたつの半円形の塔を持つポルタ・ニグラは巨大な切石で造られた城門で、2世紀のローマ建築の独創的な成果を伝えている。中世の一時期は教会堂として使用されていたが、1034~42年に大司教ポッポによって築かれた教会堂のクワイヤと2階建ての回廊の跡がこのモニュメントをさらに引き立てている。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

トリーアは橋・城壁・浴場・アンフィテアトルム・倉庫群など、いまに残る遺跡の密度と質の高さからローマ文明の卓越した証拠を示している。また、イゲルの円柱などに見られる葬儀芸術は類を見ないもので、陶芸家・ガラス細工師・鍛冶屋らによる見事な職人技が伝えられている。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

トリーアはイスタンブールと並ぶ帝国分裂後のローマの大都市の様子を伝えている。アウラ・パラティーナと皇帝浴場に代表される宮殿遺跡は首都ローマの遺跡に匹敵する巨大さが印象的だ。聖ペテロ大聖堂には皇帝の家族(おそらくコンスタンティヌス1世の母ヘレナと妻ファウスタ)を描いた天井画が残されており、ローマ帝国の文化をいまに伝えている。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

トリーアのローマ遺跡は人類史上有数のターニング・ポイントのひとつである312年のコンスタンティヌス1世のイタリア進軍に直接関係している。伝説ではこの進軍中に神による啓示を受け、ミルウィウス橋の戦いに勝利して西方正帝マクセンティウスを打ち破った。キリスト教の神の加護を確信したコンスタンティヌス1世は翌年ミラノ勅令でキリスト教を承認したという。トリーアはその出発地であり、公認後、最初に大聖堂が築かれた場所でもある。

■完全性

カルド・マクシムス(現・シメオン通り)とデクマヌス・マクシムス(現・カイザー通り)が大通りとしてありつづけているように、町のレイアウトはいまだに2世紀の構造を伝えている。世界遺産の構成資産には、部分的に建造物が残る保存状態のよい遺跡(バルバラ浴場、皇帝浴場、アンフィテアトルム)や、後の増改築部分を撤去・再構築してローマ時代の外観を取り戻したもの(ポルタ・ニグラ、アウラ・パラティーナ)、ローマ時代の構造を組み込んで後の時代に建設されたもの(ローマ橋、聖ペテロ大聖堂)、ほとんど手付かずで伝えられているもの(イゲルの円柱)などが含まれている。また、聖母教会は13世紀に大聖堂の南側に立っていた教会堂が再建されたものだ。いずれもきわめて重要な歴史的建造物であり、資産の選択・範囲・サイズも適切で、ローマ帝国・西ローマ帝国の中心都市の貴重な証拠を提示している。

■真正性

トリーアのローマ遺跡の保護と保全に関する取り組みは19世紀はじめに開始され、プロイセン王国におけるモニュメント保護の進化史と密接に関係している。したがって構成資産はローマ時代から伝わる真正な証拠であるだけでなく、ドイツにおける保護活動の歴史の重要な証拠でもある。第2次世界大戦ではアウラ・パラティーナと聖母教会が火災や爆発による損傷を受け、それぞれ1954~1956年、1946~49年に慎重に修復が行われた。

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