ドイツ北西部ノルトライン=ヴェストファーレン州に位置する炭鉱とコークス工場を中心としたルール地方の産業遺産で、19~20世紀にかけてイギリスをも凌駕するドイツの急速な産業革命の中心を担った。特に第12採掘坑の施設群はバウハウスの影響を受けた20世紀建築の傑作であり、「世界でもっとも美しい炭鉱」と評されている。
18世紀まで、ドイツはプロイセンとオーストリアを除けば小さな領邦(諸侯や都市による領土・国家)が集まった小国群で、神聖ローマ帝国がまとめてはいたが皇帝はそうした国々の代表にすぎなかった。ナポレオンがドイツを侵略し、神聖ローマ帝国が1806年に滅亡すると、政治的にも経済的にもドイツとしてまとまる必要に迫られた。一例が関税で、国境を越えるたびに税関を通らなければならず、経済協力は妨げられ、産業革命も阻害された。これに対し、1815年に35君主国と4帝国自由都市(諸侯や大司教・司教の支配を受けず神聖ローマ帝国の下で一定の自治を認められた都市)からなるドイツ連邦が成立し、1834年にはプロイセンを中心にドイツ関税同盟=ツォルフェラインが成立して経済統合が実現した。これにより域内の経済活動が活発化してようやく1840代に産業革命が開始された。はじまりの地となったのは石炭や鉄鉱石の豊富なルール地方を中心とするラインラントで、まもなくザール地方などに波及した。イギリスでは綿織物など軽工業を中心とした第1次産業革命から鉄鋼・機械・造船・化学といった重工業や重化学工業の第2次産業革命へ発展したが、ドイツではいきなり第2次産業革命に突入した。
こうした中で起業家フランツ・ハニエルは高温を発し製鉄の燃料となるコークス(石炭を蒸し焼きにして抽出した炭素を主成分とする固体燃料)に目を付け、ルール地方で石炭鉱床を探していた。1834年にエッセン郊外のシェーネベックで鉱床を発見すると関税同盟にちなんでツォルフェラインと命名し、採掘坑と関連施設の建設を進めた。1847年にツォルフェライン鉱業社が設立され、ケルン=ミンデン鉄道やエムシャー渓谷鉄道が開通して輸送路も確保された。同年に第1採掘坑が地下130mまで掘り下げられ、石炭鉱床に到達。地下水の排水施設を整備した後、1852年に本格的な採掘を開始した。同年には同じ施設内に第2採掘坑が開通し、地上の施設を共有するダブル・シャフト・システムが採用された。この地で採掘された石炭は製鉄用コークスに適していることが確認され、1857年には石炭を燃やしてコークスを抽出するコークス炉が建設された。
プロイセンは1870~71年のプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)に勝利してパリを占領し、ヴェルサイユ宮殿(世界遺産)で国王ヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式を行った。これによりドイツ帝国が誕生し、ドイツ統一が実現した。帝国宰相ビスマルクはフランスから得た莫大な賠償金を使い、鉄道などのインフラを整備し、軍備増強を行って富国強兵を進めた。これによりドイツの産業革命がさらに進展する中で、石炭とコークス生産についてツォルフェラインは中心的な役割を担った。
1882年に稼働をはじめた第3採掘坑では、竪坑の上にヘッドフレーム(竪坑櫓)と呼ばれる鉄骨の構築物とシンプルな石積みの巻上機室を備えた最新式のものとなり、巻上機で発生させた動力をヘッドフレームを通じて地下に伝えた(第1・第2採掘坑では竪坑の上にマラコフ塔と呼ばれるレンガ造の堅牢な建物を築いていた)。1890年までに石炭の産出量は100万tとドイツ1を誇るまでに成長。1914年にはじまる第1次世界大戦までに第10採掘坑まで開通し、産出量は250万tに達した。この時点でドイツの工業力は覇権国家イギリスをも凌駕した。
1918年の敗戦を受けてドイツ帝国は滅亡し、ワイマール共和国が成立した。天文学的な賠償金を課せられたワイマール共和国は返済に苦しみ、支払いが滞ると1923年にフランスやベルギーによるルール占領を招き、エッセンもフランスの支配下に入った。両軍は翌年撤退したが、ドイツ経済はハイパーインフレと1929年の世界恐慌によって壊滅的な打撃を受けた。1933年にはアドルフ・ヒトラーが首相となり、ナチス=ドイツが政権を握った。
こうした状況でも炭鉱は営業を継続し、1926年に鉄鋼会社フェライニヒテ製鉄所の手に移ると新たにコークス工場と第11採掘坑が築かれた。1928年には第12採掘坑の建設が開始され、設計にドイツ人建築家フリッツ・シュップとマルティン・クレマーが起用された。ふたりは鉄骨や鉄筋コンクリート、ガラスを用いたモダニズム建築によって近代建築運動を展開していたバウハウス(世界遺産)の影響を受け、明るく機能的で美しい先端的な施設を造り上げた。1930年に炭鉱の象徴となっているダブル・ヘッドフレームが完成し、1932年に稼働を開始した。この影響もあって1937年に産出量は360万tまで伸び、ドイツ経済の復活を支えた。
第2次世界大戦(1939~45年)の被害は比較的少なく、1953年には240万tの産出を行った。1950年代にラインエルベ鉱業社の所有になり、フリッツ・シュップは第1・第2・第8採掘坑の改修を行い、ヘッドフレームやコンベア・システムなどが刷新された。1961年には192のオーブンを備えた中央コークス工場が稼働を開始し、やがて304のオーブンに拡張された。1968年にはルール石炭社に買収されている。1960~70年代に鉄の過剰生産と価格競争による鉄鋼危機や、石炭から石油へのエネルギーの移行(エネルギー革命)が起こると石炭・コークスの需要は急減。産出量は減少を続け、採掘は1986年に停止された。同年にノルトライン=ヴェストファーレン州が土地を購入して産業遺産としての保護を開始し、整備後、ルール博物館として公開された。コークス工場は営業を続けていたが、こちらも1993年に停止してその役割を終えた。
世界遺産の資産は炭鉱・工場のみならず住宅や福祉施設など数多くの建築物・構築物で構成されている。
最終的に開発された坑道は地下14層・深度1,200mに及び、坑道の総延長は120km以上に達する。竪坑の上に立つマラコフ塔やヘッドフレーム、巻上機室は第1・第2・第10採掘坑など一部が残されており、特に第12採掘坑のダブル・ヘッドフレームや巻上機室をはじめとする施設はほぼ完全に保全されている。それぞれの採掘坑の周囲には巻上機を動かすためのボイラー室やコンプレッサー室、コンベア・システム、選炭室、集塵機などの施設・設備が見られる。
採掘された石炭はコークス工場で燃やして製鉄用コークスに加工された。中央のコークス工場は1993年に閉鎖された施設でほぼ無傷で伝えられている。一部の採掘坑には小型のコークス工場跡が残されている。中央コークス工場と隣接した鉄道駅やケルン=ミンデン線やベルギッシュ=メルキッシュ線の線路は現在も使用されている。
一帯には十分な居住施設がなかったため工場と並行して宅地の整備が進められ、当初はヘゲマスホフを筆頭にオッテカムスホフ、バイゼンといった地域が開発され、その後カルデキルヒェ、ヴェスターブルフ、グリュッカウフ、ペスタロッツィといった周辺の開発が進められた。操業開始当時、710人にすぎなかった労働者は19世紀末に約5,000人に膨れ上がり、20世紀の最盛期には8,000人に超えた。ヘゲマスホフとオッテカムスホフには庭付きレンガ造の住宅が当時のままの状態で伝えられているが、一部は高層マンションに建て替えられた。レンガ造の家並みはカルデキルヒェやヴェスターブルフにも残されている。グリュッカウフは鉱山労働者が自ら開発した土地で、区画整理されていない雑多な家並みが続いている。一部は高層の集合住宅となっており、周辺に大きな緑地を備えている。
これら以外に店舗などの消費者センター、医療・法律施設を兼ね備えた福祉施設、採掘した土砂を捨てたボタ山、運河や道路といった交通インフラなどが残されている。
本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」、(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていたが、その価値は認められなかった。
ツォルフェラインの第12採掘坑の施設は近代建築運動のデザイン・コンセプトを工業建築に適用したすぐれた例であり、傑出した工業記念物である。
ツォルフェラインの第12採掘坑の技術的構造およびその他の構造はヨーロッパの重工業の発展におけるきわめて重要な時期を代表するものであり、近代建築運動の卓越したデザインが開発・適用され、その品質の進化に貢献した。
資産は19~20世紀に集中的に産業開発を行った施設・設備で構成されており、顕著な普遍的価値を有するすべての要素を備えている。石炭の採掘・処理施設、コークス生産に必要な建造物や諸設備、鉄道等の輸送インフラ、廃棄物の巨大なボタ山、労働者の住宅といったさまざまな施設・設備からなる産業遺産であり、いずれも法的に保護されている。
施設・設備は操業停止時の状態を保っており、特に第12採掘坑の施設群は高いレベルの真正性を維持している。個々の施設・設備については稼働していないため機能を失っているものが多いが、繊細で想像力に富んだアダプティブ・リユース(適応型再利用。本来の機能・用途を変更し、博物館や公共施設・商業施設・宿泊施設といった別用途で再利用しつつ建造物の保全を図ること)のポリシーにより主要施設・設備の重要項目は十分保全されており、形状は維持され、施設間の相互関係も明確かつ理路整然とした形で伝えられている。特にフリッツ・シュップが設計した第12採掘坑の建造物群の真正性は慎重に保持されている。