アーヘン大聖堂

Aachen Cathedral

  • ドイツ
  • 登録年:1978年、2013年軽微な変更
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(iv)(vi)
  • 資産面積:0.2ha
  • バッファー・ゾーン:67ha
世界遺産「アーヘン大聖堂」、中央のドームがパラティン礼拝堂、左はクワイヤ・ホール、右はウェストワークの鐘楼、左下は聖カールス=聖フベルトゥス礼拝堂、右下は聖ニコラウス=聖ミカエル礼拝堂
世界遺産「アーヘン大聖堂」、中央のドームがパラティン礼拝堂、左はクワイヤ・ホール、右はウェストワークの鐘楼、左下は聖カールス=聖フベルトゥス礼拝堂、右下は聖ニコラウス=聖ミカエル礼拝堂
世界遺産「アーヘン大聖堂」、右はゴシック様式のクワイヤ・ホール、別名・ガラスの家。中央左は聖アン礼拝堂、その左は聖マタイ礼拝堂
世界遺産「アーヘン大聖堂」、右はゴシック様式のクワイヤ・ホール、別名・ガラスの家。中央左は聖アン礼拝堂、その左は聖マタイ礼拝堂
世界遺産「アーヘン大聖堂」、下は黄金の祭壇画パラ・ドーロ、奥の部屋はクワイヤ・ホール、ホールの下の棺はカール大帝の黄金の石棺カールシュライン、上は光背に包まれた聖母子像
世界遺産「アーヘン大聖堂」、下は黄金の祭壇画パラ・ドーロ、奥の部屋はクワイヤ・ホール、ホールの下の棺はカール大帝の黄金の石棺カールシュライン、上は光背に包まれた聖母子像
世界遺産「アーヘン大聖堂」、八角形・集中式の宮廷礼拝堂・パラティン礼拝堂
世界遺産「アーヘン大聖堂」、八角形・集中式の宮廷礼拝堂・パラティン礼拝堂。中央の2階部分がトリビューン、ドームから吊されているのはシャンデリア・バルバロッサ
世界遺産「アーヘン大聖堂」、17世紀に増築されたパラティン礼拝堂の八角形ドーム、モザイク画は19世紀の作品
世界遺産「アーヘン大聖堂」、17世紀に増築されたパラティン礼拝堂の八角形ドーム、モザイク画は19世紀の作品

■世界遺産概要

オランダ・ベルギー国境に近いドイツ西部の都市アーヘンに立つ大聖堂で、フランク王でありローマ皇帝でもあるカール大帝(カール1世)によって8世紀末~9世紀初頭に建設された。代々のドイツ王(実質的に神聖ローマ皇帝)が戴冠式を行った場所であり、「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる中世ゲルマン文化の興隆を導いた。なお、世界遺産登録時にはバッファー・ゾーンが設けられていなかったが、2013年の軽微な変更で設定された。

○資産の歴史と内容

4世紀にゲルマン系の民族移動の圧力を受けて国を保てなくなったローマ皇帝テオドシウス1世は395年に帝国を分割してふたりの息子に分け与えた。コンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)を首都とするビザンツ帝国(東ローマ帝国)と、ミラノを首都とする西ローマ帝国だ。西ローマ帝国が476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされると、後ろ盾を失ったローマ(世界遺産)の教皇庁はゲルマン人にキリスト教を布教し、新しい後ろ盾を探す必要性に迫られた。

ゲルマン系諸民族の多くを統一したのがフランク王国だ。481年にフランク王国メロヴィング朝を打ち立てたクローヴィス1世は異教徒だったが、王妃クロティルダの影響もあってローマ・カトリックのアタナシウス派に改宗し、ランス大聖堂(ランスのノートル=ダム大聖堂。世界遺産)で洗礼を受けた。やがてフランク王国はガリア(イタリア北部からフランス、スイス、ベルギーに至る地域)を制圧し、西ヨーロッパ世界のほとんどを支配下に収めた。また、7世紀に大帝国を築いたウマイヤ朝(アラブ帝国)のヨーロッパ進出に対し、732年に宮宰カール・マルテルがトゥール・ポワティエ間の戦いで撃破し、イスラム教勢力の脅威を一掃した。さらに、カール・マルテルの息子ピピン3世(小ピピン)が王位に就くと(カロリング朝)、教皇ステファヌス2世の援助要請に応えてイタリアを支配していたランゴバルド王国を討ち、ラヴェンナ(世界遺産)を教皇に譲り渡した(ピピンの寄進。教皇領の起源)。ヨーロッパと教皇庁を救ったフランク王国に対する信頼は高まり、教皇庁は西ローマ皇帝の復活を画策した。

ピピン3世の息子カール1世はランゴバルド王国を滅ぼし、父と同様に領地を寄進した。また、キリスト教を布教するためにラテン語の普及に努め、学者や芸術家を呼び寄せて文芸活動を奨励し、カロリング・ルネサンスと呼ばれる文芸の興隆をもたらした。こうしたフランク王国の功績に対し、教皇レオ3世は800年にカール1世をローマ(バチカン)のサン・ピエトロ大聖堂(世界遺産)に呼び寄せてローマ皇帝の帝冠を授けた(カールの戴冠)。これによりカール1世はカール大帝として皇帝位に就き、ローマ時代以来の教皇-皇帝体制が復活した。

カール大帝はローマ時代の温泉地でフランク王国の宮殿が築かれていたアーヘンを拠点に据え、宮殿や住居塔・軍駐屯地・官庁などが集う宮殿コンプレックスを築いてアーヘンを「新ローマ」と呼ばれるまでに繁栄させた。793年にはフランク人建築家メッツのオドの設計で聖母マリアに捧げる宮廷礼拝堂としてパラティン礼拝堂の建設を開始。ローマのパンテオン(世界遺産)のようなローマ建築やラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂(世界遺産)のようなビザンツ建築の影響を受けた集中式(有心式。中心を持つ点対称かそれに近い平面プラン)の礼拝堂で、中心の身廊は八角形、身廊を取り囲む周歩廊は十六角形という平面プランが採用された。随所に「8」に関する数字が見られるが、イエスが誕生して命名されるまでの8日間や、イエスが弟子の前に姿を現す復活後の8日目を表しており、復活や救済・約束の象徴とされる。

パラティン礼拝堂は点対称でありながら西にエントランスが設けられ、ウェストワーク(ドイツ語でヴェストヴェルク。教会堂の顔となる西側の特別な構造物。西構え)と呼ばれる2階建ての建物と、下段にポルティコ(列柱廊玄関)が設けられた。ウェストワークはカロリング・ルネサンス時代の教会堂の特徴で、西ファサード(正面)にエントランスや塔、ナルテックス(拝廊)を備えるローマ・カトリックの教会建築の伝統を導いた。また、建設当初は東に六角形の至聖所、西にアトリウム(前庭)があり、アトリウムはアーヘン宮殿と結ばれていた。現在は至聖所、アトリウム、宮殿のいずれも失われている。パラティン礼拝堂は805年にレオ3世によって奉献され、813年に竣工を迎えた(建設年代については異説あり)。

内装について、1階の重厚な角柱やポリクロミア(縞模様)の半円アーチ、2階のトリビューン(高所に設けられた列柱窓や階上廊。ギャラリー)のローマやラヴェンナから持ち込まれた大理石柱、半円アーチ、そして高さ32m・直径14.5mのドームなど多くの特徴を持つきわめて荘厳な造りで、特にドームはアルプス以北では当時最大を誇った。こうした巨大なドーム建築は西ローマ帝国が滅亡してから西ヨーロッパではほとんど築かれておらず、帝国の復活やローマ・カトリックの支配を象徴するものとなった。また、見事な装飾でも知られ、ドームのモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)をはじめ随所にビザンツ様式の緻密なモザイク画が見られる。814年にカール大帝が亡くなると遺体はパラティン礼拝堂に安置された。具体的な埋葬方法と埋葬場所は定かではないが、一説では遺体を「カール大帝の玉座」と呼ばれる皇帝の玉座に座らせ、帝冠・王笏・ローブを身に付け、聖書を持たせた状態で封印されたという。

843年のヴェルダン条約でフランク王国は東・中部・西フランク王国の3か国に分裂し、855年のプリュム条約で中部フランク王国はロタリンギア、プロヴァンス、イタリアに分割され、さらに870年のメルセン条約でロタリンギアとプロヴァンスは東西フランク王国に吸収され、ドイツ、フランス、イタリアの原型が形成された。この頃、マジャール人やスラヴ人の侵入(第2次民族移動)が脅威となっていたが、936年にパラティン礼拝堂で東フランク王の戴冠式を行ったオットー1世が955年のレヒフェルトの戦いで一掃した。これ以外にもキリスト教の布教などでも功績を挙げたことから教皇ヨハネス12世は962年にサン・ピエトロ大聖堂でローマ皇帝の帝冠を授け(オットーの戴冠)、神聖ローマ帝国が誕生した(カール大帝を始祖とする異説あり)。以後、パラティン礼拝堂はドイツ王の戴冠礼拝堂となり、1531年まで約600年の間に30人の戴冠式が執り行われた。そしてドイツ王がローマ(バチカン。世界遺産)のサン・ピエトロ大聖堂で教皇からローマ皇帝の戴冠を受けることで神聖ローマ皇帝に就任した。

10世紀末になるとアーヘンは中心都市から外れ、宮殿としての機能も失われたが、パラティン礼拝堂は数々の改修や付属礼拝堂の建設を受けて拡張された。数多くの礼拝堂を備えた教会堂はアーヘンのマリエン教会(聖母マリア教会)と呼ばれた。11~13世紀のロマネスクの時代にはパラティン礼拝堂の周囲にロマネスク様式で聖ニコライ礼拝堂や聖アエギディウス礼拝堂、聖アルムゼーレン礼拝堂が建設された。装飾もこの時代に飛躍し、主祭壇の黄金の祭壇画パラ・ドーロ、ハインリヒ2世が贈った黄金の説教壇、フリードリヒ1世バルバロッサが贈ったシャンデリア・バルバロッサなどが礼拝堂を彩った。12世紀、フリードリヒ1世バルバロッサの時代にカール大帝の墓所が開帳され、フリードリヒ2世の時代に遺骨を黄金の石棺カールシュラインなどに移して改葬した。現在、カール大帝の玉座はパラティン礼拝堂の2階のトリビューン、カールシュラインはクワイヤ・ホール(聖歌隊ホール)に安置されている。また、1165年にカール大帝が聖人として列聖されると巡礼教会となり、数多くの巡礼者を呼び寄せた。

13~16世紀のゴシックの時代にはハンガリーのルートヴィヒ大王が寄進したハンガリー礼拝堂をはじめ、聖マタイ礼拝堂や聖アン礼拝堂、聖カールス礼拝堂、聖フベルトゥス礼拝堂がゴシック様式で建設された。また、北西部のロマネスク様式の礼拝堂がゴシック様式の聖ニコラウス礼拝堂、聖ミカエル礼拝堂に改装され、アトリウムが数々の礼拝堂や洗礼堂に建て替えられた(現存するのは聖ヨハネ礼拝堂と洗礼堂のみ)。

1355年にはパラティン礼拝堂の東にゴシック様式のクワイヤ・ホールの建設がはじまり、カール大帝没後600年を記念して1414年に完成した。平面25×13m・高さ32mを誇るクワイヤ・ホールはステンドグラスと尖頭アーチ、リブ・ヴォールト、ゴシック彫刻で覆われた典型的なゴシック空間で、パリのサント・シャペル(世界遺産)を参考にしたという美しいステンドグラスのため「ガラスの家」と讃えられ、高さ25.5mのステンドグラスは当時ヨーロッパでもっとも高いものだった。現在クワイヤ・ホールには黄金の石棺カールシュラインと黄金の聖櫃(せいひつ。聖なる箱)マリエンシュラインが設置されており、マリエンシュラインには幼児時代のイエスを包んだ布、マリアの衣服、洗礼者ヨハネが斬首された際の布のそれぞれ一部が収められている。

1656年にアーヘンを大火が襲い、マリエン教会の屋根のいくつかが焼失した。1664年にクワイヤ・ホールの屋根が再建され、パラティン礼拝堂については現在見られるバロック様式のドームに改築された。また、18世紀にパラティン礼拝堂の内装がバロック様式で改修され、ハンガリー礼拝堂もバロック様式に改められた。

1794年にアーヘンはフランスに侵略され、マリエン教会は破壊・略奪を受け、馬小屋として使用されるなど損傷が進んだ。重要な宝物はナポレオンによって返却されたが、失われたものも少なくなかった。1802年にアーヘン司教区が成立し、マリエン教会は世俗化されて正式に司教座聖堂=大聖堂となった。アーヘンは1815年にプロイセン王国の版図に入り、アーヘン大聖堂は本格的に修復を受けた。1880~81年に画家ジーン・バプティスト・ベチューンによってパラティン礼拝堂のドームがモザイク画で装飾され、1884年にはウェストワークにゴシック・リバイバル様式の鐘楼が取り付けられ、現在見られるアーヘン大聖堂が完成した。

隣接するアーヘン大聖堂宝物館はアルプス以北でもっとも重要な教会付属宝物館のひとつで、フランク王国から神聖ローマ帝国時代まで西ヨーロッパ・キリスト教史を代表する傑作の数々が収められている。代表的な作品には、1000年前後に作られたと伝わる「ロタールの十字架」、カール大帝の頭蓋骨を収め金銀細工で覆われた「カール大帝の胸像」、ローマ時代の大理石の石棺でかつてカール大帝の遺骨を収めていたとも伝わる「プロセルピナの石棺」などがある。なお、宝物館自体は世界遺産の資産ではなく、バッファー・ゾーンに含まれている。

■構成資産

○アーヘン大聖堂

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

ギリシアやイタリアの大理石柱やブロンズの扉、ドームのモザイク画(当初のものは現存していない)といった数々の傑作を有するアーヘン大聖堂のパラティン礼拝堂は創設時から並外れた芸術的創造物として認められており、建築としてもアルプス以北では中世初となるアーチ建築で、もっとも重要な巡礼教会であった。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

古典建築とビザンツ建築の強い影響を受けたパラティン礼拝堂はキリスト教建築の典型となり、カロリング・ルネサンスの時代あるいは中世初期のさまざまな宗教建築にインスピレーションを与え、模倣を促した。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

カール大帝のパラティン礼拝堂はトリビューンを持つ集中式礼拝堂の卓越した作品である。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

アーヘンに建設された皇帝による宮廷礼拝堂は西ヨーロッパの統一とローマ帝国以来の精神的・政治的復興の象徴だった。814年にはカール大帝が埋葬され、1531年までドイツ王の戴冠式が挙行された。また、宝物館のコレクションは考古学的・美学的・歴史的に計り知れない価値を持っている。

■完全性

アーヘン大聖堂は顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を含んでおり、大きさも適切で法的保護も行われている。また、パラティン礼拝堂の重要性を伝えるすべての特徴と構造が維持されている。

■真正性

教会堂の形状・デザイン・素材・原料・用途・機能は変更されておらず真正性を保持しており、アルプス以北のもっとも重要な巡礼教会としてありつづけている。

■関連サイト

■関連記事