16世紀に宗教改革を導いたマルティン・ルターの決定的な活動の舞台であるモニュメント6件を登録した世界遺産。構成資産はドイツ中東部ザクセン=アンハルト州の都市アイスレーベン(ルターシュタット・アイスレーベン)の2件とヴィッテンベルク(ルターシュタット・ヴィッテンベルク)の4件で、ルターの生家と逝去の家、活動拠点となっていた住居、説教を行っていた教会堂、95か条の論題を貼り付けた教会堂、同志フィリップ・メランヒトンの邸宅の計6件となっている。
古代からアイスレーベンは銅と銀の採掘でにぎわう鉱山町で、ルターの父ハンスは鉱山労働者のひとりとして働いていた。その妻マルガレータは1483年11月10日にルターを出産し、キリスト教の聖人であるトゥールの聖マルティヌス(ドイツ語でザンクト・マルティン)にちなんで「マルティン」と命名した。翌年アイスレーベンの北西10kmほどに位置するマンスフェルトに引っ越し、1501年にはアイスレーベンの南西70kmほどにあるエアフルト大学に進学して法律や哲学を学んだ。ロースクールに通いながら稼業を手伝っていたルターだが、両親の期待を裏切って1505年にエアフルトの聖アウグスチノ修道会に入会して修道生活に入る。1506年に司祭となり、1508年にヴィッテンベルク大学の講師になるとヴィッテンベルクに移り、主に道徳哲学を教えた。1512年に神学の博士号を取得すると1515年に州の司祭に任命され、ヴィッテンベルクの大学や教会で講義や説教を行った。この時代のルターの最大の関心事は『新約聖書』の使徒パウロによる「ローマの信徒への手紙」の「神の義(善)」の問題だった。苦行を積んで善行を行っても悪でありうるという問題に対し(行為義認)、理性によって神の義に至ることの限界を悟り、神への信仰のみが義への道であり、人は神の恵みによってのみ義とされるという結論に至った(信仰義認主義)。
1515年、教皇レオ10世はサン・ピエトロ大聖堂(世界遺産)の改築費用を捻出するために贖宥状(しょくゆうじょう。免罪符)を発行した。教会で祈り寄進を行うことで罰は許されるとし、許された証として発行したのが贖宥状だ。金で罪を償うような行為は各所から批判を浴び、宗教改革の先駆者であるボヘミア(チェコ西部)のヤン・フスもこの問題をきっかけにローマ・カトリック批判を行い、15世紀はじめに異端認定されて火刑に処されている。1517年にマインツ大司教アルブレヒトによってドイツでも贖宥状が発行されるようになると、その効果について神学上の議論を巻き起こした。同年10月31日、ルターはヴィッテンベルク城教会のドアに贖宥状に効果がないことや罪を許す権利があるのは神だけで教皇にはないことなどを記した「95か条の論題」を貼り付けて議論を呼び掛けた。論題自体はラテン語で書かれていて読める者はほとんどいなかったが、何者かによってドイツ語に翻訳され、当時普及しはじめた活版印刷によって複製されてドイツ各地に広まった。教皇庁は1518年にアウクスブルク(世界遺産)で審問を行ったがルターは撤回を拒否し、1519年のライプツィヒ討論では相手の誘導もあって過激な教会批判を展開した。1520年には『キリスト者の自由』などの著書を次々に出版して自説を明確に主張した。ルターの主な主張は先の信仰義認主義に加え、聖書に書かれていることのみを認める聖書主義と、すべての信者は神に直接仕える祭司であり恵みを授かる同等の立場であるという万人祭司主義だ。これらによって教皇-司教-司祭といった階級制度や教会に都合のよい伝統や人物を聖伝や聖人として神格化する行為は否定された。レオ10世は勅書を発して撤回を求めたがルターはこれをヴィッテンベルクの広場で焼き捨てた。これを受けて1521年のヴォルムス帝国議会でルターの破門が決定し、神聖ローマ皇帝カール5世は帝国からの追放を宣言した。
この時代のドイツは多くが神聖ローマ帝国の領域だったが、実際はオーストリア大公国やバイエルン公国、ザクセン選帝侯領といった諸侯や、マインツ大司教やケルン大司教といった聖界諸侯、それらから自由になった帝国自由都市(諸侯や大司教・司教の支配を受けず神聖ローマ帝国の下で一定の自治を認められた都市)といった地方政権の集合体にすぎず、強力な国王がいないために教会の介入を受けやすく「ローマの牝牛」と呼ばれて資金源となっていた。教皇庁への反発を強めていたドイツの諸侯や都市の一部はルターの主張に賛同した。地元ザクセン選帝侯領の公爵フリードリヒ3世もそのひとりで、カール5世の追放宣言を無視してルターをヴァルトブルク城(世界遺産)にかくまった。ルターはここで『新約聖書』のドイツ語への翻訳を行った。それまでキリスト教の教えは聖職者によって伝えられるものだったが、活版印刷によってドイツ語の聖書、いわゆる『ルター聖書』が出回るようになると庶民でも直接その教えに触れることができるようになった。これにより聖書を根拠とした教会批判が可能になり、宗教改革は加速した。
1522年にルターはヴィッテンベルクに戻り、聖アウグスチノ修道会の施設に住んでヴィッテンベルク町教会で説教を行った。修道院が1524年に解散すると施設はルターと家族の手に渡り、ルター派の拠点となった。これが現在のルター・ホール(ルターハウス)だ。この頃、暴力も辞さない過激なルター派も増えはじめ、1524~25年には教会はもちろん領主の権威をも否定して農奴制の廃止を掲げるトーマス・ミュンツァーが農民を扇動してドイツ農民戦争を引き起こした。ルターは忠実な弟子であるメランヒトンとともに力による改革を否定し、平和的な抵抗を訴えて農民戦争の不支持を表明した。暴力は否定したもののローマ・カトリックにはない教義を次々と取り入れ、たとえばラテン語で行われていたミサをドイツ語に置き換えた。また、ローマ・カトリックでは司祭の妻帯を禁じていたが、聖書にはそのような記述はなく合理的な根拠がないとして結婚の必要性を説き、1525年に元修道女のカタリナと結婚した。他にも教区のサイズを変えたり、洗礼などを除く多くの秘跡(神の恵みをもたらす儀礼)を廃止して儀式体系を改めた。
この頃、ハプスブルク家のカール5世は宿敵であるフランス・ヴァロワ家とイタリア戦争(1494~1559年)を戦っており、1529年にはイスラム教勢力であるオスマン帝国のスレイマン1世に帝都ウィーン(世界遺産)を包囲され(第1次ウィーン包囲)、国内ではルター派による抵抗が続いていた。事態を打開するために1526年に信教の自由を認めてルター派の領邦教会(ルーテル教会)の活動を許可するが、1529年に撤回。ルター派諸侯はカール5世に抗議書「プロテスタティオ」を提出して再許可を求めた。これが新教を示すプロテスタントの由来となった。プロテスタント諸侯とルターの命を受けたメランヒトンは1530年の帝国議会に出席し、カール5世にアウクスブルクの信仰告白を手渡してルター派の立場を伝えた。翌年にはシュマルカルデン同盟を結成してカール5世に対抗し、1546~47年のシュマルカルデン戦争を戦った。戦争には敗れて鎮圧されるが、1555年のアウクスブルクの和議においてカール5世は諸侯に対しローマ・カトリックとともにルター派の信仰を認めた。ただし、領内では領主の決定した教派を奉じる義務が課せられ、個人の信仰の自由は認められなかった(一領邦一教派の原則/領邦教会制度)。
ルターはヴィッテンベルクで活動を続けていたが、1546年1月28日に故郷アイスレーベンを訪問。友人宅で心臓病をはじめとする持病が悪化し、2月18日に亡くなった。遺体を収めた棺は数多くの信者を引き連れてヴィッテンベルクに戻り、2月22日にヴィッテンベルク城教会に葬られた。ルターの死後、プロテスタントは拡大を続け、現在では諸派合わせて全キリスト教徒の約22%、5億人を占めている。
世界遺産の構成資産は6件で、「ルターの生家」「ルター逝去の家」「ルター・ホール」「メランヒトン邸」「ヴィッテンベルク町教会」「ヴィッテンベルク城教会」となっている。
アイスレーベンの「ルターの生家」はルターが生まれた場所に立つ市内最古級のタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)で、生後わずか数週間だが一家はこの2階に住んでいた。建物自体は1689年の火災で焼失して1693年に再建されたが、1階の構造部分は引き継がれており、床下には火災の跡も残されている。完成当時からルター記念館として使用されており、ルターに関する数多くの物品を集めている。建物はルネサンス、バロック、歴史主義様式などの折衷で、特徴的なファサード(正面)はバロック様式となっている。
アイスレーベンの「ルター逝去の家」は「ルター晩年の家」ともいわれるタウンハウスで、1498年頃に建設された。ルターは父親の鉱山業を継いだ兄弟と家業の問題を話し合うために知人の家だったこの家の2階に滞在し、通りに面した部屋で亡くなったという(亡くなった場所については異説あり)。建物は歴史主義様式で、ルターの生家と同様に博物館として公開されている。
ヴィッテンベルクの「ルター・ホール」はルターハウスとも呼ばれる3階建ての建物で、聖アウグスチノ修道会の修道院として1504年に建設がはじまった。建物は19世紀に歴史主義様式の一種であるゴシック・リバイバル様式で改修されている。ルターはヴィッテンベルクに戻るとここに住み、亡くなるまで住居とした。部屋割りは16世紀後半のものだが、上層階はルターの時代のものを引き継いでおり、ルターが使っていた家具や装飾品など数多くの関連コレクションが伝えられている。
ヴィッテンベルクの「メランヒトン邸」は1536年に建設されたユニークな破風を持つルネサンス様式の建物で、市内でもっとも美しいタウンハウスといわれている。ルターの弟子であり同志として名を馳せたメランヒトンを町に留めておくためにザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ1世が建てた建物で、メランヒトンは1階で研究を行っていた。現在はメランヒトンに関する展示を行う博物館メランヒトンハウスとして公開されている。
ヴィッテンベルクの「ヴィッテンベルク町教会」は12世紀はじめの創建で、15世紀にゴシック様式で建て替えられ、16世紀に再建された。ルターはヴァルトブルクからヴィッテンベルクに戻るとこの教会堂で「インヴォカヴィットの説教」と呼ばれる有名な説教を行って自らの思想を宣言し、はじめてプロテスタント式の礼拝を行った。ルターの死の翌年1547年に完成した祭壇画はドイツの画家ルーカス・クラナッハ親子による「改革祭壇」と呼ばれる作品で、最後の晩餐のほかルターやメランヒトンの姿も描き込まれている。
ヴィッテンベルクの「ヴィッテンベルク城教会」はその名の通りヴィッテンベルク城の付属教会堂で、1340年頃に創設され、1499年に現在見られるゴシック様式に建て替えられた。同時期に城がルネサンス様式で建て直されると、教会堂が北ウイングを形成した。ルターはここで説教を行い、教会堂のドアに95か条の論題を貼り付けた。当時のドアは18世紀の火災で失われたが、19世紀にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が寄贈したブロンズ製のドアには論題の内容が象徴的に刻み込まれている。また、ルターやメランヒトンをはじめ著名な宗教改革者の棺を収めている。
アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルターの記念建造物群は世界と教会の歴史においてきわめて重要な時代を鮮やかに描き出す数々の調度品を備えた高品質の芸術的モニュメントである。
アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルターの記念建造物群は人類史上の世界的な宗教的・政治的事件の中でも最重要の出来事のひとつであるプロテスタント宗教改革の独創的な証拠として顕著な普遍的価値を持ち、19世紀歴史主義の際立った例でもある。
構成資産には世界的に重要な信仰運動について顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素が含まれている。構成資産の構成と大きさは歴史的な特徴とプロセス・重要性を伝えるために適切である。
構成資産の建造物群はルーテル教会との密接な関係性や宗教改革の象徴的なモニュメントとしての役割により4世紀以上にわたってさまざまな修復や再建プロジェクトの対象となった。これらのプロジェクトの中には宗教改革とその人物をより際立たせるために装飾したものや、ルターら偉大な改革者らが生きていた時代の状態に戻そうと行われた事業も存在する。19世紀から20世紀初頭に行われたこうした活動はそれ自体歴史的価値を持つという主張もあれば、建造物群には大きな精神的価値が伴っているとの主張も行われている。いずれにせよ過去に行われた建造物群に対する介入は保存という観点ではなく宗教的な動機によって実行された。現在はこのような理由による介入は行われておらず、確立された現代的な保存原則と方法に沿って実施されており、今後もそのような思想の下で行われるものと思われる。