ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地

Bursa and Cumalıkızık: the Birth of the Ottoman Empire

  • トルコ
  • 登録年:2014年
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(iv)(vi)
  • 資産面積:27.467ha
  • バッファー・ゾーン:249.266ha
ブルサ様式の逆T字型プラン。左がファサード、オレンジがミナレット、ピンクがドーム、右端の壁がキブラ壁で紫部分がミフラーブ
ブルサ様式の逆T字型プラン。左がファサード、オレンジがミナレット、ピンクがドーム、右端の壁がキブラ壁で紫部分がミフラーブ
世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地」、オルハン・ガーズィー・キュリーエのオルハン・ガーズィー・モスク
世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地」、オルハン・ガーズィー・キュリーエのオルハン・ガーズィー・モスク (C) Adbar
世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地」、ハンラール・ボルゲシのウル・モスク
世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地」、ハンラール・ボルゲシのウル・モスク。見事なイスラミック・カリグラフィーで飾られている (C) Mustafa DUMAN
世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地」、ハンラール・ボルゲシのコザ・ハンの中庭と泉亭
世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地」、ハンラール・ボルゲシのコザ・ハンの中庭と泉亭。かつては有数の絹製品取引所だった
世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地」、ユルドゥルム・キュリーエのユルドゥルム・マドラサ
世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地」、ユルドゥルム・キュリーエのユルドゥルム・マドラサ (C) Mustafa DUMAN
世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地」、イェシル・キュリーエのイェシル・テュルベ。右奥がミフラーブ、中央はメフメト1世の棺
世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地」、イェシル・キュリーエのイェシル・テュルベ。右奥がミフラーブ、中央はメフメト1世の棺。彩釉タイルによる装飾が美しい (C) Carlos Delgado; CC-BY-SA
世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地」、ムラディエ・キュリーエのジェム・スルタン・テュルベの美しい内装
世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地」、ムラディエ・キュリーエのジェム・スルタン・テュルベの美しい内装 (C) Dosseman
世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地」、ジュマルクズックの街並み
世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地」、ジュマルクズックの街並み

■世界遺産概要

ブルサとジュマルクズックはトルコ北西部のマルマラ地方ブルサ県に位置する町で、ブルサはオスマン帝国最初の首都が置かれた都市で、ジュマルクズックはブルサの貴族の喜捨により運営されたワクフ村の唯一の生き残りである。特徴的なのが「キュリーエ」と呼ばれる複合施設で、礼拝所であるモスクに隣接して各種学校や病院・救貧院・給食所・浴場・市場・宿などを設置して地域の宗教・経済・社会の中心を担った。構成資産は8件だが5件はオルハン、ムラト1世、バヤジット1世、メフメト1世、ムラト2世という第2~6代皇帝(スルタン)が築いたキュリーエで、2件はキュリーエに関連した墓地と浴場、残りの1件はジュマルクズックの農村となっている。

○資産の歴史

ルーム・セルジューク朝(1077~1308年)は各地にベイ(君侯)を君主とするベイリク(君侯国)を配して統治していた。しかしその末期、モンゴル帝国やイル・ハン国の侵略・支配を受けてアナトリア半島は混乱し、各地のベイリクが勢力を増した。

1299年、テュルク系(トルコ系)のオスマン1世がイェニシェヒル周辺を中心にオスマン侯国を建国し、周囲を平定しながら版図を広げた。オスマン1世はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の帝都コンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)の南わずか80kmほどに位置する城郭都市ブルサ攻略を決意し、1317年に攻撃を開始。しかし、城郭都市を持たず、攻城戦も未経験なオスマン軍は苦戦し、戦いは長引いた。オスマン1世が亡くなるとその息子オルハンが中心となって戦争を戦い、1326年についに落城。オルハンは都をブルサに遷し、オスマン1世の墓廟(オスマン・ガーズィー・テュルベ。「ガーズィー」は戦士、「テュルベ」は墓廟を意味する)を築いて埋葬した。

続いてオルハンはコンスタンティノープルの喉元であるボスポラス海峡まで軍を進め、ビザンツ帝国第2の都市ニカイア(ニケーア)やイズミットを落とし、マルマラ海や黒海沿岸を征服。さらにエーゲ海方面のペルガモンやチャナッカレを落とし、ダーダネルス海峡を渡ってトラキア(アナトリア半島と隣接するバルカン半島南東部)南端を占領した。このトラキア進出はイスラム教徒として初となるアジア方面からのヨーロッパ進出だった。

オルハンはブルサを宗教・経済・社会の需要を満たす理想都市として整備した。オルハンが入るまでブルサは都市としての規模は小さく、ほとんど軍事機能を持つだけの要塞だった。しかし、オルハンはビザンツ時代に築かれたブルサ城の東に「キュリーエ」と呼ばれるモスクを中心とした複合施設を建設し、ここを中心に町を拡張した。これがブルサ最初のキュリーエであるオルハン・ガーズィー・キュリーエだ。施設としてはオルハン・ガーズィー・モスクを中心にマドラサ(モスク付属の高等教育機関)、イマレット(給食所)、ハマム(浴場)、バザール(市場)、キャラバンサライ(隊商宿)などが立ち並び、やがて周囲にまで拡大して「ハンラール・ボルゲシ(ハンのエリア)」と呼ばれる中心地区を形成した。オスマン・ガーズィー・テュルベが築かれたのもその一角で、後には隣接してオルハン・ガーズィー・テュルベ(オルハンの墓廟)が建てられた。

こうしたキュリーエを財政的に支えていたのは「ワクフ」と呼ばれる公共施設・事業に対する個人的な喜捨で、サダカ(個人的喜捨。対して制度的喜捨は五行のザカート)と呼ばれるイスラム教で奨励されている寄進行為のひとつとされる。そして運営しているのは主に「アヒー」と呼ばれる友愛団体的な組合組織で、このアヒーが中心となって都市の自治を行った。

オルハンはまた交易ルートを整備し、ヨーロッパや中央アジア、西アジア、エジプト、あるいはアンタルヤやアラニヤといったアナトリアの地中海沿岸部の港湾都市との交易を促した。特に有力な商品が東方からもたらされる香辛料や絹で、絹については絹織物を輸入しただけでなく、ペルシアや中国から絹糸を取り寄せ、絹織物を織ったり、刺繍を施して加工した。

オルハンの没後、息子ムラト1世はブルサ城の北西にヒュダヴェンディギャール・キュリーエ(「ヒュダヴェンディギャール」は「神の使者」「支配者」を意味し、ムラト1世を示す)を建設し、町を西に拡張した。ムラト1世は外征にも注力し、トラキアを攻めて平定すると、主要都市アドリアノープルをエディルネに改名して1365年に宮殿を築いた。一般的にはこれをもってエディルネ遷都としているが、ブルサの宮殿も変わらず使用されており、以降もムラト2世まで皇帝は自らの墓をブルサに築くなど精神的な中心地でありつづけた(推薦書ではエディルネ遷都を1413年としている)。

ヨーロッパ各国はイスラム教勢力の侵出に対してニコポリス十字軍を結成し、連合軍を組織して討伐に乗り出した。1396年、ムラト1世の息子バヤジット1世はニコポリスの戦いでこれを撃破。この活躍が認められてスンニ派イスラム教最高指導者であるカリフから地域支配者である「スルタン」の称号を与えられた。しかしこの頃、東から現れたティムールがアナトリアに侵入。バヤジット1世は1402年のアンカラの戦いに敗れて捕らえられ、まもなく死去した。これによりオスマン帝国はほとんど滅亡まで追い込まれたが、続くメフメト1世はティムールの撤退後にアナトリア西部を奪還して再興に成功した。元の勢力を回復したオスマン帝国は次のムラト2世の時代にさらにヨーロッパ方面に勢力を広げた。

1453年、ムラト2世の息子メフメト2世が悲願だったコンスタンティノープル征服を果たし、ビザンツ帝国を滅亡に追い込んだ。メフメト2世は町をイスタンブールに改名してエディルネから都を遷し、帝都として整備した。この後、オスマン帝国はヨーロッパやアラビア半島、北アフリカにまで進出して大帝国を築くが、キュリーエを中心とした都市システムやワクフ・アヒーを利用した運営システムは各地で模倣されてオスマン都市のモデルとなった。

首都はイスタンブール、副都はエディルネに奪われたが、ブルサは交易都市として繁栄を続けた。しかし、16~17世紀の反乱であるジェラーリーの乱や、18世紀以降の産業革命による世界市場の変化などによって衰退した。1855年のブルサ地震で大きな被害を受けたが、これを機に「オスマン帝国のモデル都市」として主要な建造物が修復・保存され、歴史的街並みがいまに引き継がれることとなった。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は8件で、5つのキュリーエと2つの関連施設、1つの農村となっている。

「ハンラール・ボルゲシ=ハンのエリア(オルハン・ガーズィー・キュリーエとその周辺)」はブルサ城の東に隣接して築かれたブルサ最古のキュリーエで、ブルサのシンボルでもある。中心は1339年に建設されたオルハン・ガーズィー・モスクで、逆T字型プランを持つブルサ様式のモスクの典型とされる。モスクは北の第1列目がファサード(正面)のポルティコ(列柱廊玄関)で尖頭アーチ(頂部が尖ったアーチ)と柱・頂部に小ドームが並び、第2列目が中央礼拝室と左右のイーワーン(小ホール)で3つの大ドームが連なって、この2列でT字の横軸を形成している。T字の縦軸にあたるミフラーブの部屋は奥の壁が聖地メッカの方角を示すキブラ壁(聖地メッカの方角であるキブラを示す壁)で、その中央にミフラーブ(メッカの方角を示す聖龕)が設けられている。ミフラーブを中央に配していることから、建物全体、つまりT字の縦軸がメッカの方角を向いていることになる。中央礼拝室には泉亭(ホウズ)があり、もともとアラブ型の多柱式モスクの中庭(サハン)にあたる部分をドームで囲ったものであることがわかる。ミナレット(礼拝を呼び掛けるための塔)は1基で、中ほどにバルコニーを持つ優美なデザインとなっている。もともとモスクには大学のような役割を果たしていたマドラサや、貧しい人々に無料で食事を提供するイマレット、浴場であるハマムが隣接していたが、現在は取り壊されて市の庁舎となっている。

近隣のウル・モスク(金曜モスク/グレート・モスク)はバヤジット1世によって1396~99年頃に築かれたモスクで、ブルサ様式ではなくアラブ型・多柱式モスクとなっている。69×55mの長方形の平面プランを持ち、内部はほとんど4×3列12本の柱を持つ多柱室で占められており、屋根には5×4列20基の小ドームが連なり、ファサードの左右に2基のミナレットが配されている。中庭がなく泉亭は屋内に配されており、トルコではアラブやペルシアと異なり、中庭が重視されていなかったことがうかがえる。特徴のひとつが文字を装飾化したイスラミック・カリグラフィーで、聖典『コーラン』の一節などを室内装飾としてあちらこちらに配している。また、クルミの木で造られたミンバル(階段状の説教壇)は見事な彫刻で覆われており、オスマン芸術の傑作とされる。

このキュリーエの特徴は数多くの「ハン」を持つことだ。もともとハンはキャラバンサライ(隊商宿)のような宿を示し、広い中庭をグルリと取り囲む2階建てほどのコートハウス(中庭を持つ建物)となっている。各地から集まった商人たちはハンで取引をするようになり、ハンの部屋で店舗を開き、中庭に露店を並べてバザールとした。一帯は「ハンラール・ボルゲシ」と呼ばれるが「ハンのエリア」を意味し、西からピリンチ・ハン、イペック・ハン、エミール・ハン、ゲイヴェ・ハン、コザ・ハン、フィダン・ハンといったハンが立ち並んでいる。たとえばイペック・ハンは「絹のハン」、コザ・ハンは「繭のハン」を意味し、主な商品が名称となっている。オルハンによって築かれた最古のハンがエミール・ハンで、2階建ての建物内には38の店舗と36の倉庫があり、中央に広い中庭を有している。メフメト1世によって15世紀はじめに建てられたベデステンはウル・モスクのように14の小ドームを冠した多柱の空間で、屋根付きのバザールとなっている。夜間は施錠して封鎖することができるため、金や宝石・宝飾品を扱う店舗や銀行が集まって金融センターとなっていた。

「ハンラール・ボルゲシ=ハンのエリア(オルハン・ガーズィー・テュルベ )」は現在トプハネ公園となっている一帯で、オスマン1世の墓廟であるオスマン・ガーズィー・テュルベ と、オルハンの墓廟であるオルハン・ガーズィー・テュルベが立っている。いずれも立方体の上部に大きなドームを掲げる「キャノピー・トゥーム(天蓋墓)」と呼ばれる集中式(有心式。中心を持つ点対称かそれに近い平面プラン)の墓廟で、ビザンツ建築や中央アジア、ペルシアの建築の影響を受けたものとなっている。ただ、建物は基部を除いて1855年のブルサ地震で破壊され、1863年に再建されている。それぞれオスマン1世とオルハン、その関係者の棺を収めている。隣接するトプハネ塔はアブデュルハミト2世によって1904~05年に築かれた時計塔で、高さ65m・6階建てで内部に木造の階段を備えており、頂部からブルサを一望することができる。

「ヒュダヴェンディギャール・キュリーエ(ムラト1世のキュリーエ)」はヒュダヴェンディギャール、すなわちムラト1世が1363年頃に建設したキュリーエで、ブルサを西側に大きく拡張する際のベースとなった。中心であるヒュダヴェンディギャール・モスクは2階建てで逆T字型のブルサ様式のモスクで、1階はモスク、2階はマドラサに配分されている。中央に大ドームを掲げ、その下は中庭のような中央礼拝室で泉亭を有しており、T字の縦軸部分の中央奥にミフラーブが設置されている。ファサードのポルティコや2階のロッジア(柱廊装飾)、窪みではなく逆に飛び出しているミフラーブなど特殊なデザインが見られ、キリスト教徒の建築家がデザインした可能性が指摘されている。モスクの北東にヒュダヴェンディギャール・テュルベがあり、キャノピー・トゥームにはムラト1世の棺が安置されている。イマレットは1855年の地震で倒壊した後、再建され、現在は地域の文化センターとして使用されている。他にハマムや噴水などが隣接している。

「ヒュダヴェンディギャール・キュリーエのハマム(ムラト1世のキュリーエの浴場)」はヒュダヴェンディギャール・モスクの東に築かれた浴場で、ビザンツ様式の建物となっている。建設年代は不明ながらムラト1世が建設あるいは改修したとされ、ミネラル分豊かな温泉水を特徴とする。現在もハマムとして営業を続けており、旅行者でも入浴することができる。

「ユルドゥルム・キュリーエ(バヤジット1世のキュリーエ)」はブルサ場の東2kmほどの丘に位置するキュリーエで、「ユルドゥルム」は稲妻を意味し、「雷帝」と呼ばれたバヤジット1世を示している。1390年に建設がはじまったキュリーエで、ユルドゥルム・モスクを中心にマドラサ、イマレット、ハマム、テュルベ、病院などから構成されていたが、イマレットは失われた。モスクは逆T字型のブルサ様式だが、ほぼ正方形の平面プランで、わずかに南にT字の縦軸が突起している。中央礼拝室に大ドーム、ミフラーブの部屋にドーム、イーワーンに小ドームを掲げ、ファサードのポルティコには小ドームが連なり、左右に2基のミナレットがそびえている。各所に平坦なアーチが使用されているが、「ブルサ・アーチ」と呼ばれている。マドラサは長方形の細長い建物で、かつては名門で知られ、数多くの学者を輩出した。閉鎖後は放置されていたが、戦後、病院の施設として整備された。ダールッシファーはオスマン建築初といわれる病院で、病院・薬局・パン屋・食堂などを兼ねていた。こちらも一時放棄されていたが、1990年に修復され、現在は病院として営業している。テュルベはバヤジット1世の墓廟で、バヤジット1世やその息子らの棺を収めている。

「イェシル・キュリーエ(メフメト1世のキュリーエ)」の「イェシル」は緑を意味し、モスクやテュルベの緑がかったターコイズ・ブルーの彩釉タイルに由来すると考えられている。オスマン帝国はバヤジット1世の時代に滅亡寸前に追い込まれたが、この危機を救ったメフメト1世が帝国復活の象徴としてこのキュリーエの建設を1419年に開始したという。イェシル・モスクは逆T字型のブルサ様式で、ユルドゥルム・モスクと似たドームとミナレットの構成を持つ。ただ、ファサードが独特で、ミフラーブのようなムカルナスの装飾が中央の玄関上部を飾っている。内装は壮麗で、最奥部のミフラーブは草花・幾何学文様のアラベスク(イスラム文様)やイスラミック・カリグラフィーの彩釉タイルやムカルナスで彩られており、同様の装飾はドーム周りなど各所に見られる。加えて大理石や木工細工など多彩な装飾が見られ、オスマン帝国初期の屈指の芸術空間となっている。

イェシル・テュルベは八角形の平面で頂部にドームを掲げた青色の建物で、やはり内部が壮麗でミフラーブや棺・壁面などにイズニック・タイル(イズニク地方特産の伝統的陶器タイル)が多用されている。マドラサはオスマン帝国有数の教育機関として名高く、多くの学者がここで学んだが、現在はトルコ・イスラム芸術博物館として公開されている。イマレットは現在も稼働していて炊き出しが行われている一方で、ハマムはスタジオとして使用されている。バザールではイェシル・ハンが取り壊されたが、ゲイヴェ・ハン、イペク・ハンといったハンが現存している。

ブルサ城の北西に位置する「ムラディエ・キュリーエ(ムラト2世のキュリーエ)」はオスマン帝国の皇帝がブルサに建設した最後のキュリーエで、ムラト2世によって1426年に建設が開始された。ムラディエ・モスクはイェシル・モスクの平面プランと似た2基のミナレットを持つ逆T字型のブルサ様式で、イズニック・タイルやエディルネカリ(エディルネではじまった木材などの塗装技術)を駆使した内装で名高い。特筆すべきは墓園であるハズィレで、内部にムラト2世の棺が収められたムラディエ・テュルベやその妻フーマ・ハトゥンのフーマ・ハトゥン・テュルベ、もっとも壮麗な内装で知られるメフメト2世の息子ジェム・スルタンが眠るジェム・スルタン・テュルベなど、12のテュルベが立ち並んでいる。マドラサ、イマレット、ハマムの建物も残されているが、現在はそれぞれ医療施設、レストラン、福祉センターとして使用されている。

「ジュマルクズク村」はブルサ城の東約10kmほどにあるウルダー山麓の村落で、ブルサがオスマン帝国の首都となった際に設立された。地主が土地を提供するワクフ地で、土地の所有権が移るわけではないが自由に使用することができ、生産された産物は非課税扱いとなった。これにより村の開拓を促し、ブルサへ食料や各種産品を供給した。ジュマルクズクは伝統的な街並みが残る唯一のワクフ村で、狭く入り組んだ石畳の通りに沿って伝統家屋が立ち並んでいる。住居の多くはレンガや自然石・瓦礫を積み上げて築いた2~3階建ての建物で、木造の出窓を備えており、白・黄・青・紫といった色で塗装されている。約270棟もの伝統家屋が残っており、約180棟は現在も住居として使用されている。他にもジュマルクズク・モスクやゼキエ・ハトゥン噴水、ハマムなどもオスマン時代の建物だ。

■構成資産

○ハンラール・ボルゲシ=ハンのエリア(オルハン・ガーズィー・キュリーエとその周辺)

○ハンラール・ボルゲシ=ハンのエリア(オルハン・ガーズィー・テュルベ )

○ヒュダヴェンディギャール・キュリーエ(ムラト1世のキュリーエ)

○ヒュダヴェンディギャール・キュリーエのハマム(ムラト1世のキュリーエの浴場)

○ユルドゥルム・キュリーエ(バヤジット1世のキュリーエ)

○イェシル・キュリーエ(メフメト1世のキュリーエ)

○ムラディエ・キュリーエ(ムラト2世のキュリーエ)

○ジュマルクズク村

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(iii)「文化・文明の稀有な証拠」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、ブルサとジュマルクズックがオスマン帝国の生活様式の傑出した証であるという主張に対し、ブルサは何世紀にもわたるオスマン帝国の文化の影響を受けており、最初の100年間の要素で帝国時代を総括することはできないとし、基準は証明されていないとした。これによりトルコ政府はこの基準を取り下げた。

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

ブルサはオスマン帝国初期の皇帝による革新的で独創的なシステムを通して前例のない都市計画プロセスを開発し、運営された。すべての公共インフラ・サービスの核としてキュリーエを設立し、半宗教的なアヒーと呼ばれる友愛団体を利用して商業生活を営み、公的な寄付制度であるワクフを最大限に活かして地域を結び付けた。こうしたキュリーエを中心とするシステムによって、当時世界でもっとも急速に拡大していた帝国の内部に、鮮烈で持続可能な新しい首都を迅速に建設することが可能となった。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

オスマン帝国の最初の首都であるブルサはその後のオスマン帝国の都市開発のモデルとして重要な役割を果たした。初期の皇帝によって導入された新しい都市開発のアプローチは、城壁に囲まれた既存の都市の外側に公共インフラの中心を担う複合施設を建設することをベースとしており、その周囲に都市外から来る住民のために新しい町を造営した。社会的・宗教的・商業的な機能を備えた新しい首都には長い年月をかけて中央アジアから西に伝播する過程で吸収された近隣諸国の種々の価値観が反映されており、たとえば建築様式にはビザンツ帝国やセルジューク朝、アラブ、ペルシアをはじめ多くの国や地域のスタイルが統合されている。こうして誕生したブルサはオスマン帝国拡大期に、模倣されるべきモデル都市として大いに参照された。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ブルサとジュマルクズクはアナトリアからイエメン、北アフリカにかけて大領域を数百年にわたって支配したオスマン帝国の最初の首都と周辺村落であり、この地で「ブルサ様式」あるいは「逆T字型プラン」と呼ばれるユニークな建築様式を発達させた。初期の段階ではゲストルームを備えた逆T字型のモスクにマドラサやイマレットを内蔵していたが、後にはそれぞれ別の建物としてキュリーエの中に独立して建設されるようになった。ブルサのキュリーエは都市計画において多様な機能を満たし、社会的な需要に応え、生活の利便性を増すことで都市を形成した。換言すれば、多くの機能を備えた逆T字型プランのモスクはブルサの都市計画システムの独創性を示す卓越した建築様式であるといえる。

これらのキュリーエは個々の建造物とともに都市の核を構成し、ブルサの特徴的な都市景観を生み出している。ブルサの個々の建築要素はそれぞれの建築タイプのすぐれた例であるが、この登録基準はハン、ベデステン、モスク、マドラサ、テュルベ、ハマム、住居といった要素からなるアンサンブルによって満たされている。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

ブルサはオスマン帝国初期の重要な歴史的出来事・神話・思想・伝統と直接関係している。初期の皇帝のテュルベやオルハン・ガーズィー・キュリーエの建設に従事したハシヴァトとカラギョズは影絵芝居でよく知られるキャラクターで、特に影絵芝居「カラギョズ」はUNESCO(ユネスコ=国際連合教育科学文化機関)の無形文化遺産にも登録されている。これらによって生み出された都市の神秘的なイメージはオスマン帝国初期の生活スタイルと密接に関係している。当時、イスラム世界の指導者でもあった多くの皇帝や廷臣たちはエディルネやイスタンブールを征服して遷都した後も、オスマン帝国の精神的な首都としてブルサの重要性を認識し、ブルサを埋葬地に指定して祖先や都市への忠誠心を示した。

■完全性

構成資産はオスマン帝国初期の都市と農村の計画・開発システムのすべての要素を表現するために選択されており、こうした重要な建造物群によって新首都を短期間で開発し拡張することができた。本来のシステムに唯一欠けている要素がいくつかの村落で、最上の一例であるジュマルクズクのみが構成資産となっている。

都市計画のシステムはキュリーエを中心に開発された商業エリアに代表され、その周辺に展開する住宅地は都市の拡大プロセスに貢献した。それらを全体的に管理・保護することは視覚的・空間的な観点から都市の完全性を維持するために不可欠である。将来的には道路・門・住宅地といった追加要素が都市拡張に関する完全性の向上に寄与する可能性がある。

キュリーエの一部は1855年のブルサ地震で破壊され、その後修復されており、またキュリーエに内蔵されたイマレットの一部は失われている。しかし、キュリーエはいまなおそれぞれの地域の中心的な公共空間として機能しつづけている。 歴史的に商業の中心を担ったオルハン・ガーズィー・キュリーエはエミール・ハンを軸に発展し、こうしたハンラール・ボルゲシの建造物群は現在も商業機能を維持している。ただ、ピリンチ・ハンとカパン・ハンに関しては19世紀の開発で新しい道路が建設されたため部分的に損なわれた。また、ジュマルクズクの一般建築にはきわめて独創的な例があり、農村の際立った特徴を保持している。現在の環境は村の機能や農業生産を理解するのに役立ち、キュリーエの維持にも貢献している。

■真正性

ブルサとジュマルクズクはオスマン帝国初期の5人の皇帝によって総合的に開発されて発展し、14世紀から15世紀初頭の帝国誕生の様子を物語っている。14~15世紀のオリジナルの構造が十分に保存されている一方で、構成資産のいくつかのキュリーエには19世紀に追加されたり再建された部分が含まれている。また、いくつかの商業施設のように、火災によって破壊・再建された建造物も存在する。しかし、ハンラール・ボルゲシはオスマン時代の商人文化を今日まで引き継いでおり、その中には初売り・値切り交渉・徒弟制度・商人間の善隣関係といった伝統的な儀礼が含まれている。ハンの中庭のプランは形状・デザインについて真正性を保っており、これにより現在に至るまでハンが商業機能を維持することが可能となった。

キュリーエに関して使用や機能の面で変化が起きているが、それらについては十分に記録されており、注意深く進められている。たとえばムラディエ・キュリーエではイマレットはレストランとして、ハマムは障害者のための施設として使用されており、イェシル・キュリーエのマドラサはトルコ・イスラム芸術博物館となっている。これらの施設は本来の目的である公共機能に沿って住民の社会的・文化的・宗教的需要を満たすために中心的な役割を果たしており、ブルサのオスマン時代のコンセプトを反映している。

ジュマルクズクの農業景観について、真正性は全体的に高いレベルで維持されている。住居以外の目的で使用されている家屋は少なく、昔ながらの特有の風情を引き継いでいる。一部については19世紀の改修やそれ以外の時期の定期的な修復を受けているが、村のレイアウトや住居の形状、配置、使用されている素材、特に1階部分の地元産の石材、上階部分の木材、屋根の種類、農地、全体的な環境など、オリジナルな印象は損なわれていない。ジュマルクズクの完全性を維持するために、今後も地元住民の継続的な居住を確保し、急激な商業化を避けることが重要である。

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