イスタンブール歴史地域

Historic Areas of Istanbul

  • トルコ
  • 登録年:1985年、2017年軽微な変更
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)
  • 資産面積:765.5ha
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、ガラタ塔から見下ろしたイスタンブール。左がマルマラ海(ボスポラス海峡)、手前が金角湾、両者に挟まれた半島状の場所が歴史地域
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、ガラタ塔から見下ろしたイスタンブール。左がマルマラ海(ボスポラス海峡)、手前が金角湾、両者に挟まれた半島状の場所が歴史地域。中央奥に見えるミナレットがアヤソフィア、その右がスルタンアフメト・モスク、右端がスレイマニエ・モスク
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、テオドシウスの城壁
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、テオドシウスの城壁。内側から内壁・外壁・堀で固められたきわめて堅牢な城壁で、城壁の幅は40〜60mにもなった (C) -jha-
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、アヤソフィア
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、アヤソフィア。ハギア・ソフィア大聖堂として900年以上、アヤソフィア・モスクとして500年弱にわたって祈りの場でありつづけた
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、アヤソフィア。中央最奥部がアプスで、下に見えるのがイスラム教の聖地メッカの方角を示す聖龕ミフラーブ、その上の半球ドームにはイエスを抱いた聖母マリアのモザイク画が見られる
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、アヤソフィア。中央最奥部がアプスで、下に見えるのがイスラム教の聖地メッカの方角を示す聖龕ミフラーブ、その上の半球ドームにはイエスを抱いた聖母マリアのモザイク画が見られる
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、6基のミナレットを持つ優美なスタイルを誇るスルタンアフメト・モスク、通称ブルー・モスク
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、6基のミナレットを持つ優美なスタイルを誇るスルタンアフメト・モスク、通称ブルー・モスク。オスマン建築ではこのように複数のミナレットを持つことも珍しくなかった
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、カーリエ博物館のエソナルテックスの黄金のモザイク画
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、カーリエ博物館のエソナルテックスの黄金のモザイク画。主にイエスとマリアの生涯が描かれている
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、オスマン皇帝の居城として築かれたトプカプ宮殿
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、オスマン皇帝の居城として築かれたトプカプ宮殿。1853年に新市街のドルマバフチェ宮殿に移るまで皇宮でありつづけた
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、地下宮殿
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、地下宮殿。336本のドーリア式あるいはコリント式の柱が立ち並ぶ地下貯水池で、ヴァレンス水道で引いた水を貯めてトプカプ宮殿などに供給した
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、ミマール・スィナンの傑作として名高いスレイマニエ・モスク
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、ミマール・スィナンの傑作として名高いスレイマニエ・モスク
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、ミフリマー・スルタン・モスクの中庭と泉亭
世界遺産「イスタンブール歴史地域」、ミフリマー・スルタン・モスクの中庭と泉亭。こちらもミマール・スィナンの設計

■世界遺産概要

ボスポラス海峡を挟んでヨーロッパとアジアにまたがり、洋の東西を結ぶ歴史的交易都市イスタンブール。ローマ帝国、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、ラテン帝国、オスマン帝国という4帝国でコンスタンティノープルあるいはイスタンブールとして首都となり、2,000年以上にわたって主要都市でありつづけた。また、キリスト教正教会をまとめる総主教座が置かれ、イスラム教世界の最高権力者であるスルタン(王のような地域支配者)やカリフ(イスラム教創始者ムハンマドの後継者でありスンニ派最高指導者)の在所として宗教的中心地でもあった。なお、2017年の軽微な変更で資産が若干拡大され、ブーコレオン宮殿遺跡やマルマラ海沿いの城壁、マルマー塔(マーブル塔)などが追加された。

○資産の歴史

イスタンブールは新石器時代以降、少なくとも紀元前7000年ほどから人類の居住の跡が発見されている。紀元前12世紀頃からレヴァント地方(シリア、ヨルダン、レバノン、イスラエル周辺)の海岸沿いで定住をはじめたフェニキア人が地中海に進出し、やがて地中海全域に拠点となる植民都市を建設して地中海貿易を支配した。この頃、この地にもフェニキア都市リゴスが建設されたという。紀元前7世紀にギリシア都市国家メガラの王ビザスがこの地を征服し、王の名を冠する植民都市ビザンティオンを築いた。この際、現在トプカプ宮殿のある丘にアクロポリス(ギリシャ都市ポリスの中心となる丘)が設置されたという。ビザンティオンはヨーロッパとアジアを結ぶ陸路の要衝であるだけでなく、地中海や黒海を利用する海路の要衝でもあり、交易都市として急速に発達した。

紀元前355年に都市国家として独立を果たし、共和政ローマやローマ帝国と同盟を結んでいたが、73年に帝国の版図に入った。ローマ帝国への反発が広がり、195年頃に皇帝セプティミウス・セウェルスによって2年間にわたる包囲を受けて破壊されたが、まもなく皇帝は町を再建し、以前に勝るほど繁栄したという。

3世紀、軍出身の皇帝が乱立する軍人皇帝時代がはじまり、ローマ帝国は混乱して大きな危機を迎える(3世紀の危機)。これに対して皇帝ディオクレティアヌスは中央集権を復活させ、強力な独裁(ドミナートゥス制)によって統治を回復した。しかし、大きくなりすぎた国土を維持するのは難しく、国土を4分割してふたりの正帝(アウグストゥス)とふたりの副帝(カエサル)に任せ、テトラルキア(4分治制)を敷いた。

こうした政策を覆したのがコンスタンティヌス1世だ。伝説では、夢の中で光り輝く十字架を見てから勝利に恵まれ、西の正帝を巡る戦いに勝利したという。313年のミラノ勅令でキリスト教を公認するが、東の正帝であるリキニウスが弾圧に転じて対立を鮮明化させた。324年のハドリアノポリスの戦いでこれを討ち、国土を再統一してテトラルキアを終わらせた。このときコンスタンティヌス1世はビザンティオンに入り、ノヴァ・ローマ(新ローマ)として開発することを決めたという。330年には遷都が決定され、町は皇帝の名を取ってコンスタンティノープルと呼ばれるようになり、数十年を掛けて新首都の整備が進められた。

4世紀、ゲルマン系諸民族の大移動によってローマ帝国はかつてない圧力を受け、378年にはアドリアノープルの戦いで皇帝ヴァレンスが討たれてしまう。西ゴート人はバルカン半島に侵入し、ローマ帝国は東西に分裂。国の維持は困難となり、395年に皇帝テオドシウス1世は帝国をミラノを首都とする西ローマ帝国とコンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国=ビザンツ帝国に分割し、ふたりの息子に分け与えた。ゲルマン人の圧力に対し、コンスタンティヌス1世が4世紀にコンスタンティヌスの城壁を建設していたが、447年にテオドシウス2世は町を拡大して二重の城壁・堀・柵を巡らせてテオドシウスの城壁を整備した。これにより三方を海に囲まれ、一方を強力な城壁で封じられた堅固な城郭都市が完成した。この成果もあり、476年にローマ(世界遺産)が東ゴート人の侵入によって破壊されて西ローマ帝国が滅亡したのに対し、コンスタンティノープルは1,000年以上にわたってビザンツ帝国の首都としてありつづけた。

ビザンツ帝国は勢力を増し、6世紀半ばのユスティニアヌス1世の時代に最盛期を迎えた。イタリア半島を奪還し、レヴァント地方や北アフリカまで勢力を広げて大帝国を再興した。その象徴がハギア・ソフィア大聖堂(現・アヤソフィア)だ。もともとコンスタンティヌス2世によって4世紀に創建されたと伝わる教会堂で、2度の焼失を経て再建が決定された。トラレスのアンテミオスとミレトスのイシドロスの設計により537年に完成した新しい教会堂は当時としては奇跡的な大きさを誇るもので、完成に際してユスティニアヌス1世はソロモン王が 建設した伝説のエルサレム神殿を凌駕したことを確信して「私はソロモンを超えた」と叫んだと伝えられている。この時代の卓越した文化はユスティニアヌス朝ルネサンスと呼ばれる。

キリスト教世界ではローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレム(世界遺産)を五本山とし、総主教と呼ばれる最高位の聖職者の椅子=総主教座が置かれた。このうちコンスタンティノープル総主教座はハギア・ソフィア大聖堂に設置された。7世紀に五本山のうちアレクサンドリアとアンティオキア、エルサレムはイスラム教を奉じるウマイヤ朝(アラブ帝国)やアッバース朝(イスラム帝国)の手に落ちた。717~718年にはコンスタンティノープルも包囲されたが、なんとか死守に成功した。

9~11世紀にビザンツ帝国はふたたび黄金時代を迎え、バルカン半島・イタリア半島南部・小アジア(現在トルコのあるアナトリア半島周辺)にまたがる大国を成立させた。コンスタンティノープルの人口は50万近くに達し、ヨーロッパ最大の都市となった。1054年に教皇レオ9世とコンスタンティノープル総主教ミハイル1世は互いを破門し、キリスト教はローマ・カトリックと正教会に明確に分裂した(シスマ)。正教会の総本山となったコンスタンティノープル総主教庁は東ヨーロッパやバルカン半島に進出をはじめたスラヴ人へ宣教を行い、こうした土地で多くの信者を獲得した。修道院や教会堂の活動も活発化し、ビザンツ建築やモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)、フレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)に代表されるビザンツ美術も頂点に達した(マケドニア朝ルネサンス)。最たる例がハギア・ソフィア大聖堂で、アプスの聖母子像をはじめこの時代に黄金のモザイク画で覆われた。

1038年にテュルク系(トルコ系)のイスラム王朝セルジューク朝が起こり、小アジアに侵入。1071年にはマラズギルトの戦いでビザンツ帝国を破って皇帝ロマノス4世ディオゲネスを捕縛した。1077年にセルジューク朝が分裂し、小アジアの勢力はルーム・セルジューク朝として独立し、同地のトルコ化・イスラム化を進めた。こうした危機に対しててビザンツ皇帝アレクシオス1世は教皇ウルバヌス2世に援軍の派遣を要請。1096年に第1回十字軍が派遣され、アナトリア高原を横断して1099年にエルサレムを征服した。しかしまもなく奪還され、以降の遠征はことごとく失敗に終わった。特にヴェネツィア(世界遺産)を中心とした1202年の第4回十字軍はあろうことかコンスタンティノープルに攻め込み、1204年にこれを落としてラテン帝国を成立させた。コンスタンティノープル成立後はじめての落城であり、町は略奪・破壊されて荒廃した(といっても最後は開門させており、武力による落城ではなかった)。1261年にミカエル8世パレオロゴスがコンスタンティノープルを奪還してビザンツ帝国を再興(パレオロゴス朝)。しかし、人口は5万前後と以前の1/10にまで減り、地中海の制海権もヴェネツィアやジェノヴァ(世界遺産)などのイタリア海洋都市に奪われた。勢力は衰えたが古代ギリシアやローマの研究が進められ、パレオロゴス朝ルネサンスと呼ばれる帝国最後の文化的繁栄を迎えた。その最高峰がコーラ修道院(現・カーリエ博物館)のモザイク画とフレスコ画だ。また、ハギア・ソフィア大聖堂にもこの時代のモザイク画が数多く残されている。

1299年、テュルク系のオスマン1世がオスマン侯国を建国し、息子オルハンがコンスタンティノープルの南80kmほどに位置するブルサ(世界遺産)に首都を定めた。オルハンはダーダネルス海峡を渡ってヨーロッパに進出してトラキア(アナトリア半島と隣接するバルカン半島南東部)を征服。その息子ムラト1世の時代の1362年頃に同地のアドリアノープルを占領し、1365年に宮殿を建設して首都エディルネとして整備した。こうしてコンスタンティノープルを挟み込むが、以後約100年にわたって攻略することができなかった。1396年のニコポリスの戦いではキリスト教連合軍をも撃破。バヤジット1世はスンニ派イスラム教最高指導者であるカリフからスルタンの称号を与えられた(以下、オスマンのスルタンを皇帝、オスマン侯国をオスマン帝国と表記)。

1452年、メフメト2世は悲願のコンスタンティノープル攻略に着手。ビザンツ軍の5千~1万弱に対してオスマン帝国は10万強の兵を差し向け、ウルバンの巨砲をはじめ最先端の大砲を投入して2か月にわたって町を包囲したが落とすことはできなかった。そこでメフメト2世は丸太に油を塗って道に並べ、その上に船を乗せて山越えを慣行。鎖で封鎖されていたボスポラス海峡の内側、金角湾に突如現れた70隻のオスマン艦隊によってビザンツ帝国の士気は大きく下がったといわれる。こうした作戦もあって1453年、ついにコンスタンティノープルは陥落してビザンツ帝国は滅亡した。

メフメト2世はこの地に遷都して町をイスラム都市イスタンブールとして整備した。町の象徴であるハギア・ソフィア大聖堂をアヤソフィア・モスクとして改修し、皇帝の居城としてトプカプ宮殿を建設。数多くの修道院や教会堂を廃止してモスクに転用し、また新たなモスクやマドラサ(モスク付属の高等教育機関)・病院・学校などの施設を建設した。キリスト教の信仰は認めたが、イスラム教では偶像崇拝が厳しく禁じられていたため、モスクに転用された施設では彫刻やレリーフ、モザイク画やフレスコ画を破壊して多くのビザンツ美術が失われた。ただ、アヤソフィアやカーリエ修道院では壁画が漆喰で塗り込められたため、奇跡的に難を免れた。また、交易都市の中心をなすカパルチャルシュ(グランド・バザール)をはじめとするバザール(市場)を屋根付きの施設に改修し、産業を促進してイスラム教徒の移住を促した。こうした政策の結果、16世紀に人口は70万ほどに達し、ふたたびヨーロッパ最大都市に返り咲いた。

第9代皇帝セリム1世の時代に目を東に転じ、ペルシアの地に興ったサファヴィー朝と交戦。1514年にはイスマーイール1世をチャルディラーンの戦いで打ち破ると、南のマムルーク朝を攻めて1517年に首都カイロ(世界遺産)を落としてこれを滅ぼした。それまでマムルーク朝が管理していたイスラム教の2大聖地メッカとメディナを手にしてイスラム教最高指導者カリフを廃位。オスマン帝国が実質的にイスラムの盟主となった。伝説ではこのときカリフの称号を得たとされるが、明らかではない。後年、これを根拠として帝国のスルタンがカリフを兼ねるスルタン=カリフ制を打ち立てた。

帝国はスレイマン1世の時代に最盛期を迎え、1521年にヨーロッパ遠征に着手する。翌年キリスト教勢力の前線基地であるヨハネ騎士団のロードス島(世界遺産)を占領し、モハーチの戦いでハンガリー王国を破って1526年にこれを滅ぼした。1529年には神聖ローマ帝国の帝都ウィーン(世界遺産)を包囲(第1次ウィーン包囲)し、冬の到来を受けて撤退するもののヨーロッパ世界に衝撃を与えた。さらにスレイマン1世はアゼルバイジャンやイラクを平定し、地中海では1538年のプレヴェザの海戦でスペインやヴェネツィア(世界遺産)、教皇庁を中心としたヨーロッパ連合軍を破り、地中海の制海権を握った。

この時代にオスマン美術も最高潮に達した。スレイマン1世は学問・芸術・哲学に明るい皇帝で、自ら詩を書く詩人でもあった。文学や陶芸、ガラス細工、カリグラフィー(書道)といった諸芸術が花開いただけでなく、コンスタンティノープルのインフラを整備し、町の美化に努めた。帝国史上最高の建築家と謳われたミマール・スィナンを起用し、スレイマニエ・モスクやシェフザーデ・モスク、ミフリマー・スルタン・モスクをはじめ、数々の美しいモスクを建設した。オスマン帝国のモスクではしばしばマドラサが隣接して設けられ、小学校や図書館・病院・救貧院・イマレット(給食所)・ハマム(浴場)・バザール(市場)・キャラバンサライ(隊商宿)・墓地などを隣接させてモスク・コンプレックス「キュリエ」を形成した。スィナンはスレイマニエ・キュリエの全体設計を行い、その一部としてスレイマニエ・モスクをデザインした。キュリエの建設は経済・福祉政策の一環でもあった。

17世紀までにオスマン帝国はバルカン半島からハンガリー、地中海から黒海・カスピ海、ペルシア湾、紅海、北アフリカの多くを占領して大帝国を築き上げた。しかし、1683年の第2次ウィーン包囲に失敗すると、オーストリア、ポーランド=リトアニア、ロシア、ヴェネツィアといった国々による神聖同盟に大トルコ戦争(1683~99年)で敗れ、カルロヴィッツ条約で多くの領土をオーストリアに割譲して衰退に転じた。ヨーロッパが産業革命と市民革命によって飛躍し、帝国主義の動きの中で支配域を広げる一方、エジプトやギリシアなど帝国内では独立運動が活発化して領土を奪われた。1914~18年の第1次世界大戦にも敗れ、1922年にムスタファ・ケマル・アタテュルクがイスタンブールに入ってスルタン制を廃止し、オスマン帝国が滅亡。翌年トルコ共和国が成立し、首都はイスタンブールからアンカラに遷された。一時は人口が半減したが1940年代から回復し、トルコ最大都市としてありつづけている。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は4件で、「スルタンアフメト都市考古学コンポーネント地域」「スレイマニエ・モスクとその関連コンポーネント地域」「ゼイレク・モスク(パントクラトール教会)とその関連コンポーネント地域」「イスタンブール城壁コンポーネント地域」に分類される。

「スルタンアフメト都市考古学コンポーネント地域」は資産の中心的なエリアで、マルマラ海に突き出した半島部分の先端に位置している。アヤソフィアはもともとハギア・ソフィア大聖堂としてコンスタンティヌス2世(あるいは1世)によって4世紀に創建された教会堂で、1453年まで正教会のトップであるコンスタンティノープル総主教座が置かれていた。現在見られる建物は537年にユスティニアヌス1世によって建設されたもので、平面82×73m・高さ55m、上部は「+」形のギリシア十字形で中央のドームは直径30.8~31.9m(重さによる歪みで楕円形になっている)というきわめて巨大なものとなっている。このドームは建設当時、柱で支えられた史上最大のドームであり、ビザンツ帝国1,000年の歴史の中でこれ以上のドームが築かれることはなかった(ローマのパンテオン(世界遺産)はこれより巨大だが、壁で支えられている)。内部の金色を中心とした美しいモザイク画はビザンツ様式の傑作で、ユスティニアヌス朝・マケドニア朝・パレオロゴス朝ルネサンスと呼ばれる各時代の傑作が収められている。1453年以降はモスクとして改修され、主祭壇のあったアプス(後陣)にメッカの方角を示す聖龕ミフラーブや説教壇ミンバルが設置された。初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクはアヤソフィアの無宗教化を決め、1935年以降は博物館として公開されている。スルタンアフメト・モスク、通称ブルー・モスクはアフメト1世の命で1617年に建設されたモスクで、イスタンブールでもっとも美しいモスクのひとつとされる。平面72×64m・高さ43mでドームの直径は23.5mを誇り、6本のミナレットを持つ外観が優美であるだけでなく、内部は2万枚以上のイズニック・タイル(イズニク地方特産の伝統的陶器タイル)で彩られた壮麗な空間となっている。隣接するスルタンアフメト広場(アト・メイダヌ。コンスタンティノープル競馬場)はローマ時代に戦車競技場ヒッポドロームがあった場所で、ビザンツ帝国時代には周囲にコンスタンティノープル大宮殿が置かれていた。ふたつのオベリスクが立っており、テオドシウス1世のオベリスクはローマ皇帝テオドシウス1世がエジプトの古代都市テーベのカルナック神殿(世界遺産)から持ち込んだもので、もうひとつのオルメ・オベリスク(コンスタンティヌス・オベリスク)はコンスタンティヌス1世が建てたものとされる。周辺のブーコレオン宮殿遺跡は大宮殿に隣接した宮殿遺跡だ。近隣の地下宮殿(イェレバタン貯水池/バシリカ貯水池)はユスティニアヌス1世による建設で、140×70mの貯水池で約10万tの水を貯水した。高さ9mのドーリア式およびコリント式の柱が336本立ち並んでおり、2本の柱の台座はヘビの髪を持つギリシア神話の怪物メドゥーサの頭となっている。トプカプ宮殿は1460~78年に築かれたオスマン皇帝の居城で、1853年にドルマバフチェ宮殿に移るまで皇宮とされた。現在の総面積は300,000haで、主として皇帝の居住空間である内廷、官公庁である外廷、女性たちの住むハレム(後宮)の3エリアからなっている。特に内廷やハレムは極彩色の彩釉タイルや象眼細工、レリーフ、スタッコ(化粧漆喰)細工などで彩られた華麗な空間が広がっている。内部にあるアギア・イリニ聖堂はコンスタンティヌス1世によって築かれたコンスタンティノープル初と伝わる教会堂で、4世紀前半の創建とされる。現在の建物は6世紀半ばにユスティニアヌス1世が再建したもので、8世紀までさかのぼるモザイク画やフレスコ画が残されている。オスマン帝国の支配下では軍の倉庫として使用され、現在はコンサートなどのホールとなっている。

「スレイマニエ・モスクとその関連コンポーネント地域」はスレイマニエ1世が開発を行ったモスク地帯だ。スレイマニエ・モスクはスレイマン1世の命とミマール・スィナンの設計で1550~57年に建設されたモスクで、平面59×58m・高さ53m、ドームは直径27.5mという巨大なものとなっている。帝国中の名建築家・職人・装飾家・大理石や宝石を投入した贅を極めたもので、オスマン建築を代表する建造物に仕上がった。周囲にマドラサ・小学校・病院・図書館・ハマム・イマレット・墓地を併設したキュリエで、周辺にバザールが展開している。近郊のシェフザーデ・モスクもスィナンがの設計で、夭折したスレイマン1世の息子シェフザーデ・メフメトのために1543~48年に建設された。脇を通るヴァレンス水道橋はローマ時代に築かれた全長1km弱・最大高29mの水道橋で、ハドリアヌスやコンスタンティヌス1世が整備をはじめ、4世紀に皇帝ヴァレンスが完成させた。全長250kmを超えるヴァレンス水道の一部で、水道自体はビザンティオン時代から改築・増築が繰り返されていた。オスマン帝国時代に水量の増加が図られ、スィナンも参加して改修されている。

「ゼイレク・モスク(パントクラトール教会)とその関連コンポーネント地域」はもともとパントクラトール修道院だった場所で、修道院はビザンツ皇帝ヨハネス2世コムネノスの皇妃ピロシュカによって12世紀に創建された。オスマン帝国征服後は付属教会がゼイレク・モスクとして改修され、修道院施設はマドラサや図書館・病院に転用されてキュリエとなった。凹型にへこんだレンガ壁をはじめ、ビザンツ建築が色濃く残る貴重な史料となっている。スレイマニエ・モスクとゼイレク・モスクの周辺にはオスマン帝国時代の伝統様式を引き継ぐ多数の木造家屋が残されており、当時の建築と都市プランを伝えている。

「イスタンブール城壁コンポーネント地域」はマルマラ海から金角湾に至るテオドシウスの城壁と周辺を登録したエリアだ。この地ではビザンティオン時代から数々の城壁が築かれており、ローマ時代に限ってもセプティミウス・セウェルスやコンスタンティヌス1世が城壁を建設している。テオドシウス2世は5世紀に後者の後方(西)約2kmに内壁と外壁の二重の城壁と深い堀を持つ6.65kmの堅牢な城壁を築き上げた。内壁は厚さ4.5~6.0m・高さ12m、外壁は厚さ2m・高さ8.5〜9mというもので、96基が設置された塔は10〜12m四方で高さ15〜20mに達した。堀は幅20m・深さ10mにもなり、当時はさらに柵を張り巡らせていたという。9基の大門があったとされるが、現在残っているのはアルティン門(黄金門)とカリシウス門(ベルグラド門)だ。カーリエ博物館はビザンツ帝国時代にコーラ修道院だった施設で、6世紀の創建と見られる。現在の建物は12世紀に再建されたもので、14世紀はじめに付属聖救世主聖堂のエソナルテックス(内部拝廊)の黄金のモザイク画や私設礼拝堂パレクレシオンのフレスコ画が描かれた。オスマン帝国時代はカーリエ・モスクとなり、トルコ独立後はアヤソフィアと同様に博物館として公開された。ミフリマー・スルタン・モスクもミマール・スィナンの作品で、スレイマン1世の娘ミフリマー・スルタンが監修を行った。1570年前後の建設で、直径20m・高さ37mのドームと周囲を取り囲む数多くの小ドーム、壁面の多数のステンドグラスを特徴とし、優美で明るい造りとなっている。ポルフュロゲネトス宮殿(テクフル宮殿)遺跡は13~14世紀に建設されたビザンツ皇帝の宮殿跡で、かつてはビザンツ皇帝の居城となっていた大宮殿・ブラハーン宮殿の一部を構成していた。

■構成資産

○スルタンアフメト都市考古学コンポーネント地域

○スレイマニエ・モスクとその関連コンポーネント地域

○ゼイレク・モスク(パントクラトール教会)とその関連コンポーネント地域

○イスタンブール城壁コンポーネント地域

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

イスタンブール歴史地域にはビザンツとオスマンの帝国時代の傑作と謳われる独創的なモニュメントが数多く含まれている。その最たる例が、トラレスのアンテミオスとミレトスのイシドロスが設計し532~537年に建設されたアヤソフィアであり、建築家ミマール・スィナンの設計で1550~57年に建設されたスレイマニエ・モスク・コンプレックスだ。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

歴史を通じてイスタンブールのモニュメント群はヨーロッパと中東の両地域の建築・芸術・空間構成の発展に絶大な影響を及ぼしてきた。447年の建造で二重の防衛線を備えたテオドシウス2世の6,650mにわたる城壁は軍事建築に関して最重要の史料のひとつとされ、各国で研究された。また、アヤソフィアは教会堂やモスクのモデルとなり、宮殿や教会堂のモザイク画は東洋と西洋の両者の芸術文化に多大な影響を与えた。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

イスタンブールは城壁や要塞のような軍事建築から宮殿や庭園のような宮殿建築、モザイク画やフレスコ画で彩られた教会堂やモスク、墓、宗教学校のような宗教建築、記念碑的な貯水池や水道橋・浴場といった公共建築まで、ビザンツとオスマンの文化の独創性を物語る長期間にわたる多種多様できわめて多数の芸術・建築の傑作を含んでいる。スレイマニエとゼイレクのモスク地域の宗教モニュメント群の周囲にはオスマン帝国後期の都市プランの卓越した証拠を示す木造家屋群を中心とした土着の集落が残されている。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

イスタンブールの都市は人類史上でもとりわけ重要な段階を示す際立った建造物群や建築的・技術的アンサンブルの集合体である。特にトプカプ宮殿とスレイマニエ・モスク・コンプレックスはキャラバンサライ・マドラサ・病院・医学校・図書館・ハマム・皇室の墓廟など、オスマン帝国時代の宮殿・宗教建築のアンサンブルの最良の例を提示している。

■完全性

イスタンブール歴史地域には顕著な普遍的価値を伝える鍵となる要素がすべて含まれており、それらは19~20世紀の大きな変化や劣化を免れ、早い段階から国の法律によって保護されてきた。

ただ、スレイマニエとゼイレクのモスク地域の木造家屋群については都市開発に伴う変化の脅威にさらされており、世界遺産登録時から脆弱な文化財として認識されていた。登録後から資産内の木造の構造を保全・強化するために多くの施策が実行されてきたが、域内の社会構造の変化もこうした建造物の使用に大きな影響を与えており、メンテナンスの欠如や変化に対する圧力などによって都市基盤が脅かされている。自治体は劣化した部分を回復するために再生計画を実行中だが、地域の再生は整理・保全・修復について慎重なプロセスを必要とする長期的なプロジェクトとなっている。スレイマニエ・モスク地域は商業地区の一部を少々変更した以外は構造的にも建築的にも完全性を保持している。もともとパントクラトール教会が立っていたゼイレク・モスク地域はしばしば地震の被害に直面し、対策を迫られている。

4件の構成資産内の主要モニュメントと考古学的遺跡の完全性はほとんど損なわれていないが、管理計画が欠如しているため脆弱である。現在、関係当局が策定中の管理計画はすべての問題に対処し、段階的に解決することを目指している。

イスタンブール歴史地域の位置関係や都市のシルエットはきわめて特徴的で卓越した価値を持っているが、開発に対して脆弱であり、一層の保護が必要とされる。

■真正性

イスタンブール歴史地域の顕著な普遍的価値を示すモニュメントや土着の住宅建築は建設以来、デザインや素材といった面である程度損なわれている部分もある。歴史地域の保全・修復作業は中央および自治体、あるいは新たに設立された機関が中心となって進めている。

歴史地域の配置と特徴的なスカイライン(山々や木々などの自然や建造物が空に描く輪郭線)は資産の顕著な普遍的価値を表現しつづけている。しかし、より広い海洋環境の継続的な保全が不可欠であり、開発がスカイラインを含む景観を損なうことのないようコントロールすることが必要である。

■関連サイト

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