ホラショヴィツェはボヘミア南部の村で、チェスケー・ブディェヨヴィツェの西15km、チェスキー・クルムロフ(世界遺産)の北18kmほどに位置する。山中の小さな農村ながら18~19世紀に築かれたボヘミア南部特有のフォーク・バロック様式(民俗バロック様式)の伝統的な家並みがほぼ手付かずで伝えられている。
ホラショヴィツェには新石器時代の紀元前2000年紀から人類の居住の跡があり、9~10世紀にスラヴ人が入植して集落が形成された。10世紀の終わりにボヘミア公国プシェミスル朝の支配を受け、1198年にはボヘミア王国の版図に入った。この頃の記録はほとんどないが、1292年の文書にはボヘミア王ヴァーツラフ2世がヴィシュシ・ブロトのシトー会修道院に一帯を寄進したことが記されている。1521年にはペストが大流行し、村で生き残ったのはふたりの住民だけだったという。シトー会の修道士たちはドイツやオーストリアで移民を募って迎え入れた。村は存続したが、これ以来、住民の多くがドイツ系となり、村ではドイツ語が話されていたという。1895年時点でドイツ人157人に対し、チェコ人は19人にすぎなかった。1618~48年の三十年戦争に巻き込まれたが、戦後のホラショヴィツェには14棟の住居と52人の住人がいたという。その後も平均して17家ほどの農家が農業を営む小さな村としてありつづけた。
1827年の土地台帳にはホラショヴィツェのほとんどの住居がチェコのカルパチア山脈の山域で見られる木造建築ではなく、石造であることが記されている。石造の伝統はボヘミア南部の際立った特徴であり、これらはドイツやオーストリアからもたらされたものと考えられる。1840~80年にボヘミア北部の多く村で石造への建て替えが行われたが、ボヘミア南部ではフォーク・バロックという新スタイルによる再建が進められた。
1848年にシトー会修道院を離れてザーボジーの自治体に編入された。1918年にチェコスロバキア共和国が独立し、1939~45年の第2次世界大戦ではナチス=ドイツによる差別的な支配を受け、戦後ドイツ人の追放が進められた。これにより多くの村民を失って建物は放棄されたが、この低迷が村を開発から守った。1964年にはチェスケー・ブディェヨヴィツ地区のヤンコフに加えられた。1990年代から建造物の修復がはじまり、フォーク・バロックの家々が立ち並ぶ美しい街並みが再生された。
世界遺産の資産は広場を中心とした一帯で、文化財として保護されている23のファームステッド(ウセッドロスト)を中心に120棟の建物が立ち並んでいる。ファームステッドとは、石垣に隔てられた内部に母屋となる住居の他に離れや納屋・穀物庫・厩舎・門・庭・井戸といった施設・設備を備えた農家コンプレックスで、それぞれの農家は広場の周りにファームステッドを確保して生活を営んだ。
メインの住居は石造の壁構造(壁で屋根や天井を支え空間を確保する構造)で、屋根裏部屋のある1~3階建てとなっている。屋根は木造で「∧」形の切妻造、破風(屋根の妻側の三角部分)を広場に向けており、破風飾りで装飾されている。ファサード(正面)の破風飾りが住居の顔となっており、三角形のシンプルな三角破風や釣鐘形の釣鐘破風、バロックの曲線的な絵柄で装飾されたバロック破風などが見られる。屋根はオレンジ色で、壁や破風は白地にオレンジや黄・青・緑で縁取られており、まれに黄色地も見られる。納屋や穀物庫も同様の造りだが、第2次世界大戦前後に産業の変化を受けて多くが住居に改装された。
村の公共施設としては、広場にたたずむ聖ヤン・ネポムツキー礼拝堂が挙げられる。ボヘミア・ネポムーク出身の聖ヤン(聖ヨハネ)を祀った小さな礼拝堂で、18世紀半ばにフォーク・バロック様式で建設された。切妻屋根の上に鐘楼を掲げているほか、庭にはイエス像がたたずんでいる。広場の中心付近には鍛冶屋があり、平屋の住居と鍛冶場が並んでいる。鍛冶屋は18世紀はじめにはすでに存在しており、1885年に村の西側から移動してきたことがわかっている。他に村役場や学校、現在商店となっている池の畔の建物などがある。また、村の周りには養魚場や牧草地・牧場・畑なども残されている。
本遺産は登録基準(iii)「文化・文明の稀有な証拠」、(v)「伝統集落や環境利用の顕著な例」でも推薦されていたが、それらの価値は認められなかった。
ホラショヴィツェは地元の伝統建築とバロック様式の融合によって生まれたボヘミア南部のフォーク・バロックの際立って重要な建造物群である。
ホラショヴィツェと建造物群の卓越した完全性とすぐれた保存状態によって、中央ヨーロッパの伝統的な農村集落の傑出した例となっている。
資産には顕著な普遍的価値を示すすべての重要な要素が含まれており、その範囲とサイズも適切で、資産の周囲にはバッファー・ゾーンも設けられている。村の構造はほとんど変化しておらず、変更の計画もなく安定している。個々の建物については部分的な改修・修復が行われており、わずかながら影響を受けている。しかし、伝統建築に対して敬意が払われており、形状や大きさといった点で悪影響はほとんど見られない。
資産では完全性を損ないうるような新しい建造物の建設は予定されておらず、開発圧力にも直面していない。ただ、潜在的に開発の可能性は存在するため、視覚的な完全性を損なう恐れのある開発が行われないように管理する必要がある。
ホラショヴィツェは18~19世紀に建設された独創的できわめて価値の高い伝統建築を数多く有し、中世のレイアウト・土地区画・歴史的外観を保っており、中央ヨーロッパの伝統的な村落を非常にすぐれた保存状態で伝えている。19世紀時点の村の状態が維持されており、真正性は高いレベルで保持されている。そしてこれらは地籍調査で作成された当時の地図によって裏付けられている。
ファームステッドの多くは外観・内装ともに高い真正性を保っているが、中には大規模なリフォームによって大きく変化したファームステッドも存在する。現在老人ホームとして使用されている建物が一例で、こうした改装についても管理される必要がある。