ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会

Pilgrimage Church of St John of Nepomuk at Zelená Hora

  • チェコ
  • 登録年:1994年
  • 登録基準:文化遺産(iv)
  • 資産面積:0.64ha
  • バッファー・ゾーン:627.9ha
上空から見た世界遺産「ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会」
上空から見た世界遺産「ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会」、聖堂の五芒星の形が確認できる (C) Wolkenkratzer
サイドから見た世界遺産「ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会」
サイドから見た世界遺産「ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会」。頂部のスパイア(ゴシック様式の尖塔)や尖頭アーチなどにゴシック様式が見られる
世界遺産「ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会」
世界遺産「ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会」。数々の図形が確認できるが、三角形は三位一体、五芒星は聖ヤン・ネポムツキー、六芒星は聖母マリアを示すといわれる (C) Herbert Frank
世界遺産「ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会」の主祭壇
世界遺産「ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会」の主祭壇 (C) Ondrej.konicek

■世界遺産概要

チェコ中部、モラヴィア西部の町ジュダール・ナト・サーザヴォウ郊外のゼレナー・ホラ(緑の山)に立つ教会堂で、聖ヤン・ネポムツキーを祀る聖堂として18世紀前半に建設された。

○資産の歴史と内容

聖ヤン・ネポムツキーは「ネポムークの聖ヨハネ」を意味し、ネポムーク出身のヤンという人物を示している。ネポムークはジュダール・ナト・サーザヴォウの西170kmほどに位置するボヘミア南西部の町で、聖ヤン・ネポムツキーは1340年頃にこの町で生まれ、神父である父親やシトー会の修道院でキリスト教を学んだ。やがてプラハ(世界遺産)に出てカレル大学(プラハ大学)に通い、聖ヴィート大聖堂の司祭となり、プラハ大司教の書記や代理にまで上り詰めた。

この頃、教皇庁ではローマ(世界遺産)とアヴィニョン(世界遺産)に分裂する大シスマ(1378~1417年、教会大分裂)が起きていた。また、腐敗し権力闘争を繰り返すローマ・カトリックを批判してイングランドのジョン・ウィクリフは聖書への回帰を主張したが、その思想はヨーロッパに広がっていた。ボヘミア王ヴァーツラフ4世(神聖ローマ皇帝ヴェンツェル)はローマの教皇庁を支持していたが確固とした態度を取ることができず、諸侯からも教会組織からも失望されていた。そんな中、ボヘミアにおける司教座の創設や司教の任命を巡ってプラハ大司教ヤン・イェンシュテインと対立し、1393年に大司教を投獄すると側近である聖ヤン・ネポムツキーに拷問を加えて殺害し、カレル橋からヴルタヴァ川に遺体を投げ捨てるという事件を起こす。これを受けて反乱が勃発し、1394年にヴァーツラフ4世は捕縛・監禁され、1400年には神聖ローマ皇帝位を剥奪された。

聖ヤン・ネポムツキーの遺体は約1か月後に赤心十字騎士団によって引き上げられ、スタレ・メスト(プラハ旧市街)の修道院教会に安置された後、聖ヴィート大聖堂に葬られた。伝説では、遺体の上には5つの星が輝いており、拷問され1か月を経た遺体であるにもかかわらず損傷のない奇跡的な状態だったという。やがて聖ヤン・ネポムツキーはチェコおよびドイツにおける神の信仰を守った殉教者であるとの評価を得、数々の伝説から神格化が進んだ。一説ではプロテスタントの興隆に対して行われた対抗宗教改革(反宗教改革)の一環で、イエズス会がローマ・カトリックの神秘性を喧伝するための戦略だったともいわれる。

17世紀には聖ヤン・ネポムツキーに対する信仰はボヘミアやモラヴィアに広がり、真偽を確かめるために1719年にプラハ大司教によって遺体が調査され、舌が朽ちていないことが確認された。この奇跡を受けて1721年に教皇インノケンティウス13世によって列福(徳と聖性を認めて福者の列に加えること)され、1729年にはベネディクトゥス13世によって列聖(福者より上位である聖人の称号を与えること)された。

1719年の調査結果を受けて聖ヤン・ネポムツキーの聖堂を建設する計画が進められた。当初は生家に近いネポムークのシトー会修道院が候補に挙がったようだが、修道院はフス戦争(1419~36年)で焼失してすでに存在しなかった。そこで新たにシトー会修道院が建設されたジュダール・ナト・サーザヴォウが選ばれ、修道院長ヴァーツラフ・ヴェイムルヴァの尽力もあって郊外のゼレナー・ホラに聖堂の建設が決定した。設計を担当したのはボヘミアの建築家ヤン・ブラジェイ・サンティニ=ヒェルで、1719年に建設が開始され、未完成のまま1720年に奉献された。主要な建物については1721年、クロイスター(中庭を取り囲む回廊。ペリスタイルが発達したもの)は1727年に完成したが、その後も礼拝堂や祭壇の制作が続けられた。

聖堂のデザインはきわめて独創的なものとなった。聖堂は10の尖った角を持つクロイスターに囲まれており、クロイスターのへこみ部分に5基の門と5堂の五角形の礼拝堂が配された。中央の聖堂はゴシック様式の要素を加えたバロック様式で、聖ヤン・ネポムツキーのマウソレウム(廟)でもあることからか集中式(有心式。中心を持つ点対称かそれに近い平面プラン。古来マウソレウムによく見られる)を採用し、上空から見ると五芒星の形が確認できる。これを意識するとクロイスターは星の輝きにも見える。聖堂内部には円形の中心部の周囲に10の角があり、5堂の五角形の礼拝堂と5堂の三角形の礼拝堂を収めている。主祭壇にはイエス像とともに5人の大天使、3人の小天使の彫刻が掲げられ、5つの星が記された球体を3人の大天使が運んでおり、これらの上部には光り輝く三角形のレリーフが設置されている。しばしば登場する「5」は遺体に現れた5つの星、「3」は三位一体(父なる神、子なるイエス、聖霊の三者を同一の存在であると認める考え方)を表すと同時に、聖ヤン・ネポムツキーが53歳で亡くなった事実を示しているという。また、ドームには聖ヤン・ネポムツキーを示す舌が描かれており、窓枠など随所に見られる釣鐘のような意匠も舌を示すとの説もある。その視覚的な神秘性から聖堂は多くの賛辞を集め、数多くの巡礼者を迎え入れた。

しかし、1784年の火災で聖堂の屋根が燃え落ちるなど大きな被害を出すとシトー会は修道院の解散と聖堂の閉鎖を決め、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世はこれを承認した。パイプオルガンや説教壇など貴重品が次々と持ち出される中で、シトー会の修道士と周辺住民は1791年頃から聖堂の修復をはじめ、行政当局に聖堂の維持を嘆願した。翌年、巡礼教会や墓地として使用しないことや、資金を自分たちで賄うことなどの条件付きで聖堂の継続が認められ、新しい屋根が架けられた。これらの資金は修道士や市民の寄付だったという。

19世紀に入ると巡礼教会としての役割が回復され、再度の火災などもあったが領主や地元の有力者による支援を得て修復が進められた。1953年に聖堂は州の所有に移り、公的な保護下に置かれた。

■構成資産

○ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」、(ii)「重要な文化交流の跡」、(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていたが、その価値は認められなかった。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会はゴシック様式とバロック様式の移行期の建築様式を代表する卓越した建造物である。

■完全性

資産はバロック様式の聖堂、聖堂を取り囲むクロイスター、周辺の巡礼路を含む景観といった顕著な普遍的価値を伝えるすべての重要な要素を含んでおり、資産の範囲もサイズも適切である。聖堂やクロイスターは完成以来、基本構造が変化しておらず、絵のように美しい景観や周辺環境についても脅威を受けていない。バッファー・ゾーンは1993年に自治体によって設定された旧シトー会修道院の保護地域と同一であり、法的保護下にあって開発圧力にもさらされていない。

■真正性

ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会は全体としての構造も細部もオリジナルのデザインを保っており、真正性は保持されている。聖堂は1784年の火災で屋根とファサード(正面)の一部が損傷を受けたが、1792~1802年の修復で大幅に変更されることはなかった。世界遺産リストへの搭載後は遺産保護のための厳格な国際基準に基づいて歴史的な素材と技術を体系的に使用して外装・内装両面のメンテナンスと修復が行われている。資産は現在でも礼拝所としての機能を維持しており、一部の墓は移築されたもののクロイスター内の墓地も現存している。現在、教会の完全な修復が進められている。

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