独立問題を抱えているセルビア南部のコソボ共和国(コソボ・メトヒヤ自治州)に位置する世界遺産。セルビア正教会を代表するセルボ・ビザンツ様式の聖堂群で、特にフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)は13~17世紀にバルカン半島で発達したフレスコ画の最高峰とされる。なお、本遺産は2004年に「デチャニ修道院」として世界遺産リストに登録され、2006年にペーチ総主教修道院、リェヴィシャの生神女聖堂、グラチャニツァ修道院の3件を加えて現在の名称に改められた。また、2006年から現在まで危機遺産リストに搭載されている。
1171年にステファン・ネマニャがステファン1世として王位に就いてセルビア王国ネマニッチ朝が成立した。その息子ステファン・ネマニッチの時代、1219年に正教会をまとめるコンスタンティノープル総主教庁からセルビア正教会が独立し、セルビア大主教区の大主教座がジチャ修道院に置かれた。13世紀後半から14世紀初頭にかけて、ステファン・ウロシュ2世はバルカン半島南部に侵攻し、版図を大幅に拡大した。ステファン・ウロシュ2世はリェヴィシャの生神女聖堂とグラチャニツァ修道院を建設して寄進している。続くステファン・ウロシュ3世は第2次ブルガリア帝国を破ってバルカン半島の多くを押さえ、次のステファン・ウロシュ4世はマケドニアやアルバニア、ギリシアを侵略して最盛期を迎え、1346年に皇帝位に就いてセルビア帝国を成立させた。同年にセルビア大主教区は総主教区に格上げされ、総主教座がペーチ総主教修道院に設置された。
しかし最盛期は短く、ステファン・ウロシュ5世が1371年のマリツァの戦いでイスラム王朝であるオスマン帝国に敗れて死去し、ネマニッチ朝が断絶。1389年にコソボの戦いに敗れるとバルカン半島南部から撤退した。セルビア公が跡を継いでセルビア公国を建てたものの、まもなくオスマン帝国の支配下に入り、1459年に滅亡した。一連の戦いでセルビアの国土は大きな被害を受けたが、オスマン帝国は信教の自由や教会の活動を認め、1557年にペーチ総主教庁が回復してセルビア正教会の活動が再開された。
世界遺産の構成資産となっている3修道院と1聖堂はセルビア王国・セルビア帝国というバルカン半島の覇権を握ったセルビアの勃興期・黄金期に築かれたもので、西洋と東洋を結ぶバルカン半島にあって西のロマネスクやゴシック様式、東のビザンツ様式といった種々のスタイルの影響を受けながら独自のスタイルを構築した。
デチャニ修道院(ウィソキ・デチャニ修道院)はステファン・ウロシュ3世が1327~35年に建設した修道院で、この功績から「デチャンスキ」の異名を持つ。モンテネグロやアルバニア国境に近いプロクレティエ山脈の麓に位置し、クリの森の中に石垣を巡らせた要塞修道院となっている。石垣は140×110mほどの楕円形で、壁に沿って僧院・塔・食堂・キッチン・修道院長室などが弧を描いて連なっており、中央にカトリコン(修道院の中央聖堂)であるフリスタ・パントクラトラ聖堂(ハリストス昇天聖堂)がたたずんでいる。聖堂はローマ・カトリックの「†」形のラテン十字式に見えるが、「+」形のギリシア十字式のナオス(ギリシア十字式平面プランの中心の正方形部分)の西にナルテックス(入口に設けられる拝廊)を取り付けたものとなっている。外壁は淡いピンクと黄の大理石プレートを交互に並べたポリクロミア(縞模様)で、建物上部には半円アーチのレリーフを並べたロンバルディア帯が見られ、ナオスの頂部には高さ26mのドームを掲げている。東側に3つの半円が飛び出した3アプス(後陣)式で、中央の大アプス内部はイコノスタシス(聖障)で仕切られた至聖所となっている。
フリスタ・パントクラトラ聖堂の最大の特徴はフレスコ画で、ナオス、ナルテックス、アプスのいずれも壁面や天井は見事なフレスコ画で覆い尽くされており、総面積4,000平方m・1,000超の場面数という正教会世界でも稀に見る規模を誇る。フレスコ画は14~17世紀の作品が混在しており、ローマ・カトリックのスタイルも含まれている。特に14世紀のフレスコ画はビザンツ帝国最後の王朝パレオロゴス朝の下で古代ギリシアやローマの研究を進めて開花したパレオロゴス朝ルネサンスを展開させた重要な作品となっている。フレスコ画の題材は『新約聖書』の場面を描いたものが多く、イエスやマリア、天使、預言者、十二使徒、聖人らが描かれている。建築・装飾のいずれにおいても西のロマネスクやゴシック様式と東のビザンツ様式を融合させたセルビア特有のセルボ・ビザンツ様式(ヴァルダル様式。ラシュカ様式を発展させた様式)を代表するモニュメントである。
ペーチ総主教修道院はデチャニ修道院の北13kmほどに位置する修道院で、13世紀後半にセルビア大主教区の大主教座がジチャ修道院からこの地に移され、1346年には総主教座に格上げされて総主教修道院の名が冠された。修道院は13世紀前半、大主教アルセニイェ1世の創建と見られ、デチャニ修道院と同様、半円形ながら石垣に囲まれた要塞構造で、かつては5基の塔で守りを固めていた(塔は現存しない)。内部にカトリコンが存在するが単一の教会堂ではなく、いずれもドームを冠した東の聖使徒聖堂、北の聖ディミトリア聖堂、南のホデゲトリア生神女聖堂の3聖堂が西のナルテックスで結ばれており、さらに南に小さな聖ニコラオス聖堂が隣接している。それぞれの聖堂にナオスとアプスがあり、いずれも見事なフレスコ画で飾られている。フレスコ画が描かれはじめた年代はそれぞれ異なり、聖使徒聖堂は1260年以前、他は14世紀以降で、ホデゲトリア生神女聖堂の14世紀のパレオロゴス朝ルネサンスのフレスコ画やゲオルギエ・ミトロファノビッチによる17世紀のフレスコ画、聖ニコラオス聖堂のラドゥルによる17世紀のフレスコ画など、多様な様式・画家の傑作が見られる。代々の総主教の墓地でもあり、数多くの棺が収められている。
リェヴィシャの生神女聖堂はアルバニア、マケドニア国境に近いプリズレンに位置する教会堂で、1306~07年頃にもともと正教会の教会堂があった場所にステファン・ウロシュ2世がプリズレン主教区の主教座聖堂として建設した。教会堂の中心部はビザンツ様式で、四角形の平面プランの中に十字形を入れ込んだ内接十字式のクロス・ドーム・バシリカで、中央の大ドームと四隅に小ドームを掲げている。この構造の南北に側廊を設け、東にアプスを置き、西にナルテックスと、ビザンツ様式の鐘楼を備えた2階建てのエクソナルテックス(外部ナルテックス)を設けることでローマ・カトリックのバシリカ式教会堂のような長方形の平面プランとなっている(セルボ・ビザンツ様式)。それぞれの内部はフレスコ画で覆われており、パレオロゴス朝ルネサンスのフレスコ画は14世紀初頭までさかのぼる。フレスコ画には聖書の場面やイエス、マリア、預言者、使徒、聖人らのほか、セルビア王国の国王や大主教の姿も見られる。15世紀にオスマン帝国の支配下に入るとやがて聖堂はモスクに改修され、偶像崇拝を嫌うイスラム教徒によってフレスコ画の一部は破壊され、一部は漆喰で覆われた。ふたたび教会堂に戻るのは1912年で、第2次世界大戦後に修復が行われたが、フレスコ画の70%は失われた。
グラチャニツァ修道院はコソボ共和国の首都プリシュティナ中心部から南8kmほどに位置する修道院で、ステファン・ウロシュ2世によって1315~21年に建設された。石垣の要塞構造であることは他の修道院と同様だが、この修道院は約100m四方の正方形をなしている。壁に沿ってオープンスペースを取り囲むように僧院や門などの施設が設けられているが、当時の建物で現存するのは中央にたたずむカトリコンのみとなっている。カトリコンはセルボ・ビザンツ様式を代表する建物で、中央に5つのドームを持つビザンツ様式の内接十字式クロス・ドーム・バシリカで、東に3つのアプス、西に大きなナルテックスを設けて長方形のバシリカ式教会堂のような外観を生み出している。ナオスの全面を色彩豊かなフレスコ画が覆っており、特に14世紀初頭に巨匠ミハイル・アストラパスとエウティキオスが20年近くをかけて完成させたパレオロゴス朝ルネサンスのフレスコ画が名高い。ナルテックスもフレスコ画で覆われていたが、オスマン帝国の略奪を受けて多くが失われた。
本遺産はコソボの独立問題に関する政情不安の状況にあり、21世紀に入っても2004年にリェヴィシャの生神女聖堂が暴動に巻きこまれ、2007年にはデチャニ修道院がテロの被害に遭っている。KFOR(コソボ安定化軍)やUNMIK(国際連合コソボ暫定行政ミッション)が展開しているものの構成資産の監視・管理は困難で、管理計画の実施および積極的な管理は行われておらず、保全のためのメンテナンスも不足している。資産の保護のために法的ステータスを確立する必要があり、バッファー・ゾーンについても法的保護が求められている。
本遺産は2004年に「デチャニ修道院」として世界遺産リストに登録された際は登録基準(ii)(iv)が承認された。2006年の拡大で新たに登録基準(iii)が加えられた。
デチャニ修道院は中世の西洋とビザンツの伝統の融合の傑出した例である。修道院、特に絵画はオスマン帝国時代の芸術と建築の発展に重要な影響を及ぼした。ペーチ総主教修道院、リェヴィシャの生神女聖堂、グラチャニツァ修道院は正教会パレオロゴス朝ルネサンスのビザンツ様式と西洋のロマネスク様式の融合を進め、14~16世紀のバルカン半島の教会建築と壁画の発展に決定的な役割を果たした。
各修道院や教会堂の壁画はバルカン半島においてビザンツ美術のパレオロゴス朝ルネサンスの文化的伝統を示す卓越した証拠である。14世紀前半のグラチャニツァ修道院とリェヴィシャの生神女聖堂のフレスコ画はバルカン芸術が到達した芸術性の高みを示している。テッサロニキのアギイ・アポストリ聖堂(世界遺産)やアトス山のプロタトン聖堂(世界遺産)に似ているが、 1300年頃から1673~74年にかけてのペーチ総主教修道院の作品群はこうしたスタイルの勃興・発展を強力に物語っている。
デチャニ修道院は東のビザンツと中世西洋の伝統を融合させたセルビア=スラヴ建築の発展の最終段階を示す際立った例である。ペーチ総主教修道院、グラチャニツァ修道院、リェヴィシャの生神女聖堂は14世紀にバルカン半島で複数の教会勢力が台頭した際にパレオロゴス朝ルネサンスの建築様式と壁画装飾の技術を引き継いで発展したセルビア独自のスタイルを反映している。こうした文化は政府によって利用され、セルビアのアイデンティティ確立に貢献した。
デチャニ修道院のカトリコンの建物と壁画の保存状態は非常によく、内部のインテリア・家具・芸術作品も引き継がれており、完全性は高いレベルで維持されている。グラチャニツァ修道院とペーチ総主教修道院はバルカン半島の激動の歴史にもかかわらず修道院としての機能を保っており、コソボ紛争でも大きな損傷は受けておらず、カトリコンは17世紀の外観をそのまま維持している。いずれの構成資産でも周辺環境が保護されており、ペーチ総主教修道院では川や丘を含む美しい景観が維持されている。街並みの中にたたずむグラチャニツァ修道院は広い中庭とともに保護されており、周辺もバッファー・ゾーンに指定されている。リェヴィシャの生神女聖堂では聖堂周辺のオープンスペースも資産に指定されており、プリズレンの街並みの一部がバッファー・ゾーンとなっている。こうしたバッファー・ゾーンは完全性の一部を構成するものであり、保護される必要がある。
デチャニ修道院の真正性は満足のいくものであり、高いレベルで維持されている。周辺の建物のいくつかは損傷を受けて再建されたが、修道院の構造やレイアウトは元のまま維持されている。
ペーチ総主教修道院とグラチャニツァ修道院について、修道院の建物はほとんど再建されていて残っていないが、カトリコンについては真正性が保たれている。
リェヴィシャの生神女聖堂の歴史はより複雑で、一時はモスクとして利用されていた歴史を持つ。教会に戻すために20世紀に大幅な改修作業が行われたが、残された壁画は30%ほどに留まった。近年の火災によってこの割合はさらに減っており、構造にも影響を受けた。しかし、その歴史的変化はバルカン半島の歴史を刻む貴重なものであり、真正性は許容できるレベルで維持されている。