レヴォチャ、スピシュスキー城及びその関連する文化財

Levoča, Spišský Hrad and the Associated Cultural Monuments

  • スロバキア
  • 登録年:1993年、2009年重大な変更
  • 登録基準:文化遺産(iv)
  • 資産面積:1,351.2252ha
  • バッファー・ゾーン:12,580.6784ha
世界遺産「レヴォチャ、スピシュスキー城及びその関連する文化財」、スピシュスケー・ポドフラジエの街並み。右の鐘楼はルター派(ルーテル教会)の福音教会、左のバロック様式の記念柱は聖母マリア柱、背後はスピシュスキー城
世界遺産「レヴォチャ、スピシュスキー城及びその関連する文化財」、スピシュスケー・ポドフラジエの街並み。右の鐘楼はルター派(ルーテル教会)の福音教会、左のバロック様式の記念柱は聖母マリア柱、背後はスピシュスキー城
世界遺産「レヴォチャ、スピシュスキー城及びその関連する文化財」、スピシュスキー城
世界遺産「レヴォチャ、スピシュスキー城及びその関連する文化財」、スピシュスキー城
世界遺産「レヴォチャ、スピシュスキー城及びその関連する文化財」、スピシュスキー城
世界遺産「レヴォチャ、スピシュスキー城及びその関連する文化財」、スピシュスキー城 (C) Jakub Hałun
世界遺産「レヴォチャ、スピシュスキー城及びその関連する文化財」、城壁で囲まれたスピシュスカー・カピトゥラと聖マルティナ大聖堂
世界遺産「レヴォチャ、スピシュスキー城及びその関連する文化財」、城壁で囲まれたスピシュスカー・カピトゥラと聖マルティナ大聖堂 (C) Civertan
世界遺産「レヴォチャ、スピシュスキー城及びその関連する文化財」、レヴォチャの中央広場。市庁舎(手前)と聖ヤコブ教会(奥)
世界遺産「レヴォチャ、スピシュスキー城及びその関連する文化財」、レヴォチャの中央広場。市庁舎(手前)と聖ヤコブ教会(奥)
世界遺産「レヴォチャ、スピシュスキー城及びその関連する文化財」、レヴォチャの街並み。コシツカ門と右の鐘楼は聖霊教会(旧・ミノリトウ修道院)
世界遺産「レヴォチャ、スピシュスキー城及びその関連する文化財」、レヴォチャの街並み。コシツカ門と右の鐘楼は聖霊教会(旧・ミノリトウ修道院)

■世界遺産概要

スピシュスキー城が立つ丘は古代から砦や城が築かれていた要衝で、13世紀にモンゴル帝国の襲来に備えて堅固な城が建設された。周辺のスピシュスケー・ポドフラジエやスピシュスカー・カピトゥラ、西13kmほどに位置するレヴォチャといった町はモンゴル軍によって破壊されたが、13世紀以降にロマネスク・ゴシック・ルネサンスを中心とする多様な様式で再興され、軍事・政治・宗教が一体化した中世・近世の典型的な街並みが誕生した。

なお、本遺産は1993年に「スピシュスキー城及びその関連する文化財 "Spissky Hrad and its associated cultural monuments"」として世界遺産リストに登録され、2009年にレヴォチャが追加されて現在の名称となった。資産はスピシュスキー城とその周辺の町、北西のスピシュスケー・ポドフラジエ、スピシュスカー・カピトゥラ、東のホドコブチェ、ジェフラなどを含んでおり、レボチャについては市壁内の歴史地区が登録されている。

○資産の歴史

スピシュスキー城のそびえる標高634mの丘は周囲から200mほど立ち上がっており、高さ20~40mほどの断崖によって守られた天然要塞となっている。紀元前の時代から人間の居住の跡があり、ケルト人の要塞集落が築かれていたようだ。9~10世紀にはモラヴィア王国、その後はハンガリー王国も要塞を運用していたが、この頃の要塞は地震で倒壊してしまったようだ。モンゴル帝国のバトゥが西征を開始し、東ヨーロッパのルーシ国家やポーランド王国を落としてハンガリー王国に攻め込んだ13世紀前半、ハンガリー王国、ひいてはヨーロッパの防衛拠点としてスピシュスキー城が建造された。1241年のモンゴル軍の攻撃には耐えたが、スピシュスケー・ポドフラジエ、スピシュスカー・カピトゥラやレヴォチャといった周辺の都市は破壊され、侵攻そのものを食い止めることはできなかった。スピシュスキー城は直後から修復・増築が行われ、13世紀後半にはロマネスク様式の宮殿やロマネスク・ゴシック様式の礼拝堂が建設された。14世紀にはゴシック様式で増築が行われて面積は2倍に増え、16~17世紀にはルネサンス様式で改修を受けた。これらの時代には一帯を支配するザポーリャ家やチャーキー家といった領主の居城として使用された。1780年の火災で多くの建物が倒壊すると城は放棄され、城を構成していた多くの石材が建材として持ち去られた。

城の西に隣接するスピシュスケー・ポドフラジエは12世紀に建設された城下町で、モンゴル軍の襲来で破壊された後、ロマネスク様式で再建された。12~13世紀にゲルマン系サクソン人が移住してコミュニティを形成し、1321年に自由都市(大司教や司教の支配を受けず教会に対して義務を免除された都市)になると数多くのギルド(職業別組合)が設けられ、鍛冶屋・陶工・石工・織工・肉屋・皮革・靴屋といった多彩なギルドで繁栄した。この時代はハンガリー王国の版図に入っていたが、ハンガリー内でも織物や染色といった工芸で名を馳せ、最盛期には250もの工房が稼働していたという。14世紀に都市レイアウトが引き直され、15世紀に拡張し、16世紀の大火を機に町はルネサンス様式で建て替えられた。町の中心部にはこの時代の建物が多く残されている。一例が聖母マリア聖誕教会で、鐘楼は13世紀前半の建設、教会堂は1258年の創建で、火事と地震のため1825~29年に新古典主義様式で再建されている。ドイツ人やユダヤ人といった移民の多い町だったが、1875年に建設されたシナゴーグはそのひとつの表れで、天井などにイスラム建築の影響が見られる点もユニークだ。特徴的なのが街並みで、職人の工房だったルネサンス様式やバロック様式の色彩豊かな建物が数多く残されている。そのひとつであるルネサンス様式の市庁舎は1546年の建設だ。

スピシュスカー・カピトゥラはスピシュスケー・ポドフラジエを見下ろす西の丘にたたずむ町で、11世紀にベネディクト会の修道院が築かれて以来、修道院城下町として発達した。1241年のモンゴル軍の襲来で焼失した後、13世紀後半に再建された。象徴的な建物がロマネスク様式で再建された聖マルティナ大聖堂で、15世紀にゴシック様式で改築され、17~18世紀にバロック様式で改修された。町を取り囲む城壁は18世紀後半のものだ。司教宮殿や神学校などもロマネスク・ゴシック様式で建設され、後にルネサンス・バロック様式で改修されている。時計台もバロック様式で1739年の建設だ。

スピシュスキー城の南東3km弱に位置するジェフラは一帯でも最初期のスラヴ人入植地のひとつ。町の象徴である聖霊教会は1275年の建設で、17世紀のオニオン・ドームなど増築や改修はあるものの、当時のロマネスク様式を留めている。近郊のホドコブチェにはスピシュスキー城を3世紀にわたって管理したチャーキー家が17~18世紀に建設した見事なバロック宮殿(ホドコブチェ・マナー・ハウス)が残されている。

レヴォチャはモラヴィア王国の時代には軍事施設だった場所で、11~12世紀にはハンガリー王国の都市として発展し、ゲルマン系サクソン人が入植して町を拡張した。1241年にモンゴル軍の破壊を受けると13世紀後半から再興がはじまり、14世紀には町を取り囲む堅固な市壁が建設され、城内は直線で区切られた整然としたレイアウトに再構成された。レヴォチャはモラヴィア(チェコ東部)、ポーランド、シュレージエン(シレジア。ポーランド・チェコ国境周辺)、ハンガリーを結ぶ要衝に位置していたことから交易都市として繁栄し、14世紀に自由都市になるとさらに発展した。町には商人のみならず各種ギルドが集まり、石工・ブリキ職人・仕立屋・ボタン製造業者をはじめ30以上のギルドが活動していた。15~16世紀には城壁が改修され、火事による被害などもあって多くの建物がルネサンス様式の石造建築に建て替えられた。一例が市庁舎だ。

また、レヴォチャは後期ゴシック様式の彫刻と絵画の一大拠点としても知られていた。多くの芸術家が集まったが、特筆すべき彫刻家・画家がマイスター・パヴォル(マスター・ポール)で、1500年前後から約30年にわたってレヴォチャで活動を行い、数々の傑作を残した。最高傑作が高さ18.6mと世界でもっとも高い木造ゴシック祭壇とされる聖ヤコブ教会(聖ヤコブ・バシリカ)の主祭壇だ。レヴォチャは17~18世紀にはバロック美術の町としても知られるようになり、数多くの建築・芸術作品が制作された。

○資産の内容

世界遺産としてのレヴォチャの資産は市壁とその内側の歴史地区で、全長2.5kmほどの市壁の約80%と、15の砦・塔のうち6基、4門のうち3門(コシツカ門、ポルスカ門、メンハルツカ門)が現存している。歴史地区は中央広場を中心に直線で区画されており、ルネサンス・バロック様式を中心とする600棟以上の歴史的建造物が連なっている。中央広場には北から聖ヤコブ教会、市庁舎、福員派教会(アウクスブルク福音派告白教会)という象徴的な建物が連なっている。聖ヤコブ教会の創建は14世紀前半で、1380年にゴシック様式で完成し、18~19世紀にゴシック・リバイバル様式で改修された。マイスター・パヴォルの主祭壇には聖ニコラス、聖アン、聖ヨハネ、聖ジョージらの見事な彫刻が見られ、他にもバロック様式の祭壇など数々の芸術作品で彩られている。市庁舎は14世紀にルネサンス様式で建設された後、1656~61年に鐘楼が建設され、1893~95年にネオ・ルネサンス様式で改修された。議会のほか市民ホールやスピシュ美術館などが入っている。ドームが特徴的な福員派教会は1823~37年にかけて新古典主義様式で建設された教会堂だ。他にも13世紀の創建で14~15世紀の壁画が残るゴシック様式のギムナジアルニ教会(旧・マイノライト修道院)をはじめ、ギルドの旧工房など一般の住宅を含めて数多くの歴史的建造物が立ち並んでいる。

■構成資産

○レヴォチャとマイスター・パヴォルの作品

○スピシュスキー城と関連の文化財

■顕著な普遍的価値

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

マイスター・パヴォルの作品群を含むスピシュスキー城、スピシュスケー・ポドフラジエ、スピシュスカー・カピトゥラ、ジェフラ、レヴォチャの文化的モニュメントは東ヨーロッパの中世都市の軍事的・政治的・宗教的・経済的・文化的な機能の特徴をきわめてよく保存した本物かつ卓越した建造物群である。

■完全性

中世東ヨーロッパのロマネスク・ゴシック様式の政治・経済・軍事・宗教的な都市建築の例としてスピシュスキー城、スピシュスケー・ポドフラジエ、スピシュスカー・カピトゥラ、ジェフラ、レヴォチャに匹敵する例はない。資産には顕著な普遍的価値を持つ主要な要素がすべて網羅されており、レヴォチャを加えたことでルネサンスの都市プランや城郭都市、数百に及ぶ民間住宅といった側面が加わって完全性は強化された。

■真正性

資産の建造物群は13~14世紀のロマネスク・ゴシック様式の軍事建築や宗教建築、公共建築や民間の住宅建築などについて東ヨーロッパでもっとも広範な建造物群のひとつであり、驚くほど手付かずで伝えられている。都市プランと建築の両面で真正性は高いレベルで維持されているが、レヴォチャの私有財産についてメンテナンスや修復の品質には特別な注意を払う必要がある。

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