イベリア半島北東部、カタルーニャ州タラゴナ県のヴィンボディ・イ・ポブレーに位置するシトー会の修道院で、正式名称をサンタ・マリア・デ・ポブレー王立修道院という。中世には修道院・宮殿・墓所・教会堂・学校・図書館・診療所・工場・農場等を有するシトー会最大級の修道院コンプレックスで、厳しい戒律と労働・学習を重視し、建築も行動も装飾性を嫌ったシトー会にあってロマネスク・ゴシック様式を中心としたシンプルながら芸術性の高い造形で知られている。
修道院が立つ地はもともとバルセロナ伯の所有地で、未開ながらポプラの森が繁り、川が流れる山の麓の美しい土地だった。12世紀はじめにバルセロナ伯ラモン・ベレンゲル4世は奪われていたこの土地を奪還すると、フランスのフォンフロワド修道院に寄進した。1150年に修道院が設立され、1163年から修道士たちによって礼拝堂や僧院の建設が開始され、土地を開墾して農場を切り拓いた。まもなく貴族や地元の人々から寄進が相次ぎ、早くから崇敬されていたようだ。
14世紀半ば、周辺で戦争が起こると、バルセロナ伯でアラゴン、バレンシア、マヨルカの国王でもあったペドロ4世が石垣を築いて修道院を囲んで要塞化し、王室墓所(ロイヤル・パンテオン)や礼拝堂を建設した。以降、ポブレー修道院にはアラゴン王や王妃、その家族が埋葬された。14世紀末~15世紀はじめにかけてマルティン1世が宮殿を建設。1452年にはアルフォンソ4世がナポリでの勝利を記念してサン・ホルヘ礼拝堂を寄進した。
1469年にアラゴン王フェルナンド2世とカスティリャ女王イザベル1世が結婚して連合が成立し、1479年に合併して事実上スペイン王国が誕生。アラゴン王室がカタルーニャを離れたことで衰退がはじまった。アラゴン王は代々ポブレー修道院に埋葬されていたが、フェルナンド2世がこの伝統を破ってアルハンブラ宮殿(世界遺産)の修道院教会に埋葬された(後にグラナダ大聖堂の王立礼拝堂へ移転)。16世紀はじめに修道院長カイシャルがルネサンスの名彫刻家ダミアン・フォルメントに主祭壇の祭壇画の制作を依頼。完成した作品は見事だったがコストが非常に高く、シトー会の戒律に反するということで浪費と戒律不遵守で罰せられている。
スペインの近代化が進み、18~20世紀に貴族や教会・修道院が所有していた土地を収容する永代所有財産解放令が発令された。ポブレー修道院はそのひとつである1835年のメンディサバル法によって土地を奪われ、閉鎖された。さらには近代化に反対する19世紀の三次にわたるカルリスタ戦争で被害を受けて荒廃し、重要な文物のみがタラゴナ大聖堂に退避された。修道院の修復がはじまるのは1930年で、1940年に修道院の活動が再開され、1952年に王家の墓が戻された。
ポブレー修道院は3重の石垣に守られた要塞修道院コンプレックスで、それぞれの石垣に設けられたプラデス門(プラードの門)、ドラダ門(黄金の門)、レアル門(王家の門)を抜けて入院する。修道院教会については1670年にもっとも内側の石垣にバロック様式の西扉が設けられた。
12世紀に建設された修道院教会は「†」形のラテン十字式の三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)で、身廊と北の側廊はロマネスク様式、南の側廊は14世紀に再建されてゴシック様式となっている。ゴシック様式の特徴である身廊から飛び出したフライング・バットレス(飛び梁)も南側廊上部にしか見られない。十字が交差する交差廊にはゴシック様式のクロッシング塔が立っている。交差廊内部に設置されているのが王室墓所で、人通りを妨げないように大きなアーチを架けてその上に南北ふたつの石棺を掲げている。石棺には国王の石像が彫刻されており、中にはアルフォンソ2世やハイメ1世、ペドロ4世、フェルナンド1世、フアン1~2世といったアラゴン王が埋葬されている。三廊にアプス(後陣)を持つが、中央のアプスは5つの小アプスに分かれている。中央アプスの主祭壇に掲げられているのがダミアン・フォルメントによるアラバスター(大理石に似た白い半透明の石材)製の祭壇画で、イエスや使徒・聖人らの彫刻が立ち並び、イエスの受難の物語がレリーフに刻まれている。
修道院教会の北にはクロイスター(中庭を取り囲む回廊)があり、12世紀にロマネスク様式で建設され、13世紀にゴシック様式で改修された。クロイスターの周囲にはチャプター・ハウスや食堂、キッチン、僧院、図書館などの施設が隣接している。
マルティン王宮殿は王家の門であるレアル門を入ってすぐの場所に展開しており、クロイスターと接続されている。建築家アルマウ・バゲスの設計によるシンプルながら美しいゴシック建築だが、マルティン1世は完成を見ることなく亡くなった。マルティン1世は院内のサン・ベニート礼拝堂に埋葬されている。
ポブレー修道院は12~14世紀のシトー会様式(装飾を排除したシトー会特有の様式)のもっとも完全な表現のひとつであり、きわめて独創的な芸術的成果である。修道院にはダミアン・フォルメントの偉大なアラバスター製祭壇画(1529年)をはじめとするさまざまな時代の傑作が収められている。
ポブレーの修道院コンプレックスは宗教・葬祭・宮殿・軍事建築といった異なる建築が融合したきわめて独創的な建造物群で、シトー会の中でももっとも大きく、もっとも完成度の高い修道院のひとつとして評価されている。
1940年に修道院の活動が再開されて以来、ほぼすべての建造物が修復・復元され、1835年のメンディサバル法で財産が収容される以前の姿を取り戻した。その結果、教会堂や食堂、クロイスター、チャプター・ハウス、僧院、写字室、石垣や門など、資産は顕著な普遍的価値を伝えるすべての要素を完全に保持している。修道院には僧院や教会堂といった宗教建築のみならず、宮殿や王室墓所をはじめ多くの重要な建造物を有し、ルネサンス様式のアラバスター製祭壇画に代表される工芸品についても同様である。
ポブレー修道院では1835年に土地を収容されて修道院としての活動が中止された。しかし、1849年に歴史的・芸術的モニュメントを守るための委員会が介入し、このプロセスを停止した。そして1930年に再建がはじまり、1940年に修道院の活動が再開された。修道院の歴史的・建築的価値はこのとき以来、さまざまな修復・復元作業を通して保全されている。また、ポブレーに置かれたシトー会組織の存在はタラデーリャス・アーカイブのような保管資料と相まって、建築的な側面に加えて本来の精神的価値や機能・使用にまで及ぶ真正性を保証している。