ドゥブロヴニクはアドリア海ダルマチア地方の海洋都市共和国・ラグーサ共和国の首都として発達した都市で、小島に城壁を張り巡らせて「アドリア海の真珠」とうたわれる美しい城郭都市を築き上げた。ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサ、アマルフィというイタリア4大海洋都市(いずれも世界遺産)に並ぶほどに繁栄し、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるバルカン半島にありながら巧みな外交で19世紀まで独立を勝ち抜いた。なお、本遺産は1979年の登録時、城壁内の旧市街とロクルム島全域に限られており、バッファー・ゾーンは存在しなかった。1994年の範囲変更を受けて資産が城壁外に拡大され、レヴェリン要塞やラザレットを含む東のビーチから、北のイザ・グラダ、ロヴリエナツ要塞を含む西のブルサルエ高原まで拡大され、周辺にバッファー・ゾーンが設けられた。2018年の軽微な変更ではバッファー・ゾーンが東のオルスラ公園から西のフラニョ・トゥジマン橋付近まで22倍ほど拡大された。また、本遺産はクロアチア紛争による破壊を受けて1991~98年まで危機遺産リストに搭載されていた。
この地が記録に現れるのは7世紀のことで、近郊の都市エピダウロスがスラヴ人によって滅ぼされた際にギリシアあるいはローマの血を引くダルマチア人が島に移り住み、城塞を築き、城壁で囲って「ラグーサ」と呼ばれる城郭都市を建設した。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、セルビア王国(帝国)、ヴェネツィア共和国、ハンガリー王国といった大国の主権下に入りながらも自治を守りつづけた。
12世紀頃から対岸で暮らすようになったスラヴ人は都市をオーク(ドブ)にちなんで「ドゥブロヴニク」というスラヴ語名で呼ぶようになったという。次第にダルマチア人とスラヴ人の同化が進み、島と大陸との海峡が埋め立てられてさらに一体化していった。
1272年にヴェネツィアから自治権を獲得し、1358年にはハンガリーから独立してラグーサ共和国を建国。独自の法制度を整えて都市の近代化が進められた。一例が1301年の医療サービスの導入、1317年の薬局の開業、1347年の救貧院の創設、1377年の検疫所の設置、1418年の奴隷制の廃止、1432年の孤児院の開設だ。いずれも画期的なもので、たとえば1317年開業のマラ・ブラチャ薬局はヨーロッパで3軒目とされる薬局で、種痘も早くに導入された。また、何度もペストに悩まされた経験から検疫所を設置しただけでなく、「ラザレット」と呼ばれる隔離施設を建設して伝染病が懸念される地域からの来訪者には30~40日の隔離措置が執られた。こうした検疫システムはヴェネツィアに続くもので、隔離期間の40日を示すイタリア語 "quaranta" はやがて検疫所 "quarantena" との言葉を生み、英語の "quarantine" の語源となった。1438年には清潔な飲料水を確保するため貯水池に代えて水道橋を建設し、20kmにわたって水道を引いて城内のオノフリオの噴水まで引き入れた。この噴水は現在でも稼働している。また、学問や芸術の振興にも積極的で美術学校や新聞所を設立し、「スラヴのアテネ」と呼ばれるほどの繁栄を勝ち取った。
ラグーサ共和国のモットーは「リベルタス(自由)」にあった。城外の西に築かれたロヴリエナツ要塞の門には「世界中の財宝をもってしても自由は売らず」と刻まれている。国内的には国王や独裁者による専制的な政治を嫌い、議会を設置して共和政を採り、首長として総督を置いたが在位期間はわずか4週間にすぎなかった。対外的にはヴェネツィアとイスラム王朝であるオスマン帝国の間でバランスを取ることで独立を維持した。14世紀にオスマン帝国がヨーロッパに進出し、1453年にビザンツ帝国を滅ぼすと、15世紀後半にはバルカン半島の多くを制圧した。ヴェネツィアとオスマン帝国は鋭く対立して幾度もの戦争を戦ったが、ラグーサ共和国は自由中立を掲げて両者の間で主権を保つことに成功した。このためヴェネツィアの貿易が縮小するのに反してラグーサ共和国は地中海貿易で優位に立つことができた。
1667年、ダルマチア地方を巨大な地震が襲う。ラグーサ共和国では5,000人以上の犠牲者を出し、建物のほとんどが倒壊したという。復興資金を得るために1699年にネウムなど複数の領地をオスマン帝国に売却しなければならなかった。また、15世紀後半からはじまる大航海時代に国際貿易の中心は地中海から大西洋にシフトし、16世紀以降、アドリア海の交易そのものが衰退した。
1806年、ナポレオン率いるフランス帝国に包囲され、1か月の籠城の後に降伏。イタリア王国に統合された後、1814年にオーストリア帝国(1867年以降はオーストリア=ハンガリー帝国)のオーストリア領ダルマチアに組み込まれて自治は終焉を迎えた。第1次世界大戦後にユーゴスラビア王国、第2次世界大戦後にユーゴスラビア社会主義連邦共和国となり、連邦国家内のクロアチア社会主義共和国に含まれた。
1979年にユーゴスラビアの「ドゥブロヴニク旧市街」として世界遺産リストに掲載された。1991年にクロアチアが独立を宣言するとユーゴスラビアとの間で戦闘が起こり、ドゥブロヴニクは数千発の砲弾にさらされて街の70%が破壊された(クロアチア紛争)。これを受けて1991年に危機遺産リストに搭載され、1995年に戦争が終結するとUNESCO(ユネスコ=国際連合教育科学文化機関)の支援を受けて世界中からボランティアと資金が集まり、建設当時と同じ素材・工法・デザインで再建が進められた。これにより1998年に危機遺産リストから解除されている。
世界遺産の構成資産は2件で、ドゥブロヴニク旧市街とロクルム島となっている。
旧市街最大の見所は城壁を中心とした防衛システムだ。1453年にオスマン帝国が難攻不落で知られるコンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)を落としたことを受けて城壁の強化が進められ、ヨーロッパ随一の堅牢さを備えるに至った。城壁は12~17世紀の各時代に増改築が進められ、全長約1.94kmの多くが二重壁で、最大で高さ25m・厚さ4~6mを誇る。城壁とその周辺には約30の塔・砦・要塞があり、城門は強力な東のプロチェ門、西のピレ門をメインとし、北に小さなブジャ門、内部にポンテ門やペスカリヤ門などが設置された。城壁の内外に数多くの塔や砦・要塞が設けられ、東のレヴェリン要塞と西のロヴリエナツ要塞が城外の要衝を押さえ、城内では北のミンチェタ塔や西のボカール砦、港の聖イヴァン砦などが睨みを利かせている。スルジ山のインペリアル要塞とロクルム島のロイヤル要塞はナポレオンのフランス帝国が築いたものだ。
公共建築として、レクター宮殿とスポンザ宮殿が挙げられる。レクター宮殿は14世紀にゴシック様式で建設され、15世紀にルネサンス・バロック様式で改装されており、政府の庁舎や評議会・武器庫・火薬庫・刑務所などとして使用された。一方、スポンザ宮殿は16世紀はじめの建設で、ゴシック・ルネサンス様式で築かれており、特に多層ロッジア(柱廊装飾)が特徴的だ。こちらには議会や省庁・税関・造幣局・銀行などが入っていた。隣接する高さ31mを誇る時計塔は市庁舎の鐘楼で、1444年の建設だが地震の影響で20世紀に再建されている。城外の東にあるラザレットは検疫所を兼ねた隔離施設で、もともとロクルム島などにあったものを17世紀半ばに移転させた。
宗教建築としては、まずドゥブロヴニク大聖堂(聖母マリア被昇天大聖堂)が挙げられる。創建は7世紀にさかのぼるとされ、12世紀には第3回十字軍から帰還したイングランド王リチャード1世がロクルム島で座礁して救出された際にロマネスク様式に改修したと伝えられる。1667年の大地震で多くが倒壊し、イタリアの建築家アンドレア・バッファリーニの設計では1671~1713年に再建された。バロック様式でラテン十字形・三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)の教会堂で、コリント式の円柱やピラスター(付柱。壁と一体化した柱)、各種ペディメント(三角破風)、屋根の彫像、十字のクロス部分に架かる長球(楕円を回転させた形)ドームなどにバロック様式がよく表れている。巨匠ティツィアーノによる聖母被昇天の祭壇画や、ドゥブロヴニクの守護聖人ブラシウスの頭蓋骨をはじめとする遺骨群、イエスの磔刑で使用されたという聖十字架の一部などの傑作や聖遺物が収められている。フランシスコ会修道院は城外で13世紀に創設され、城内に移転して14世紀に新しい修道院が建設された。やはり1667年の大地震でゴシック様式のポータル(玄関)を除いて倒壊し、バロック様式で再建されている。特に名高いのがふたつのクロイスター(中庭を取り囲む回廊)で、ルネサンス様式とゴシック様式の美しいクロイスターで知られる。修道院教会はバロック様式を代表する建物で、彫刻家ジュゼッペ・サルディの主祭壇や画家マト・セレスティン・メドヴィッチの祭壇画など多くの芸術作品を収めている。他にも数多くの写本やインキュナブラ(初期活字印刷物)を収蔵するクロアチア最古級の修道院図書館,、1317年創業のマラ・ブラチャ薬局、高さ44mを誇るロマネスク様式の鐘楼などを備えた修道院コンプレックスとなっている。ドミニコ会修道院は1225年の創設で、要塞のようなゴシック様式の建物は14世紀にようやく完成した。数多くの施設からなる修道院コンプレックスで、ゴシック様式の聖セバスティアヌス教会や聖ドミニコ教会、ロマネスク様式の鐘楼、ゴシックおよびルネサンス様式のクロイスターと、多彩な時代の多様な様式の建築や装飾で彩られている。1662年に建設がはじまった聖イグナチオ教会は建築家アンドレア・ポッツォの設計によるイエズス会の教会堂で、1725年頃にようやく完成した。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・単廊式の教会堂でバロック建築の傑作として名高く、特にアプス(後陣)の美しいフレスコ画は有名だ。ドゥブロヴニクの守護聖人・聖ヴラホ(聖ブレイズ)に捧げられた聖ヴラホ教会の創設は14世紀にさかのぼり、1667年の地震と1706年の火事で破壊され、ヴェネツィアの建築家マリノ・グロペリの設計で1706~15年に再建された。バロック様式でギリシア十字形・三廊式の教会堂で中央にドームを冠しており、美しいステンドグラスやバロック彫刻が見られる。ロクルム島のベネディクト会修道院は1023年創設とドゥブロヴニク最古の修道院で、壮大な施設だったと伝えられている。12~13世紀にロマネスク様式の巨大な教会堂が建設され、15~16世紀には修道院がゴシック様式やルネサンス様式で再建された。しかし、1667年の大地震で大きな被害を受け、その後は衰退して1798年に廃院となった。
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