スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿

Historical Complex of Split with the Palace of Diocletian

  • クロアチア
  • 登録年:1979年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iii)(iv)
  • 資産面積:20.8ha
世界遺産「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿」、スプリット市街
世界遺産「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿」、スプリット市街。中央やや左に聖ドムニウス大聖堂の鐘楼が見える
世界遺産「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿」、左が東門にあたる銀門、中央と右にコリント式の柱が見える
世界遺産「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿」、左が東門にあたる銀門、中央と右にコリント式の柱が見える
世界遺産「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿」、右の八角形の建物が聖ドムニウス大聖堂、その左が鐘楼
世界遺産「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿」、右の八角形の建物が聖ドムニウス大聖堂、その左が鐘楼
世界遺産「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿」、宮殿の中心に位置するペリスタイル。正面の建物はロトンダ
世界遺産「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿」、宮殿の中心に位置するペリスタイル。正面の建物はロトンダで皇帝のアパートメントやセラーのエントランス・ホールに当たる
世界遺産「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿」、ディオクレティアヌス宮殿の地下施設・皇帝のセラー
世界遺産「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿」、ディオクレティアヌス宮殿の地下施設・皇帝のセラー (C) Dennis Jarvis
世界遺産「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿」、ネオ・ルネサンス様式の建造物群に囲まれたレプブリケ広場
世界遺産「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿」、ネオ・ルネサンス様式の建造物群に囲まれたレプブリケ広場

■世界遺産概要

ディオクレティアヌス宮殿はローマ皇帝ディオクレティアヌスが305年の引退後に余生を過ごした宮殿で、世界遺産の資産には宮殿跡とその周辺のスプリット旧市街が含まれている。ローマ帝国滅亡後に宮殿は破壊されたが、ディオクレティアヌスの霊廟が大聖堂、ユピテル神殿が洗礼堂に改修されるなど中世・近世の街並みは宮殿の遺構をベースに発達し、ローマの遺跡とロマネスク・ゴシック・ルネサンス・バロック・新古典主義・歴史主義といった多様な様式の建築・芸術が混在する稀有な都市景観を生み出した。

○資産の歴史

3世紀、乱立した軍人皇帝(軍人出身で元老院に皇帝位を認められた、あるいは皇帝を自称した者)によってローマ帝国は混乱し、崩壊の危機を迎えていた(3世紀の危機)。こうした軍人皇帝の時代を終わらせ、中央集権を復活させたのが284年に即位したディオクレティアヌスだ。ディオクレティアヌスは元老院の機能さえ奪って権力を皇帝=専制君主ドミヌスに集中させ、自らローマの主神ユピテル(ジュピター。ギリシア神話の最高神ゼウスにあたる)の化神を称して強力な専制政治を行った(ドミナートゥス制)。293年には帝国を東西に分割し、それぞれに正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)を置くテトラルキア(4分治制)を敷き、軍事・官僚制度を切り離して強化し、属州を細かく分割して地方の力を削いで統治した。当初はキリスト教に比較的寛容だったが、キリスト教徒が皇帝崇拝を行わなかったため弾圧に転じ、303年にはキリスト教の禁止と強制改宗を命じて大弾圧を加えた。

強権によってローマ帝国の崩壊を食い止めたディオクレティアヌスだが、病気を患うと305年にアッサリと引退を決意し、295年頃から故郷サロナ(現・ソリン)に近いダルマチア地方の小さな港町スパラトゥム(現・スプリット)に築いていた宮殿に移り住んだ。その後、帝国は衰退の一途をたどるが、ディオクレティアヌスは菜園で自らキャベツを育てて暮らしていたという。

ディオクレティアヌス宮殿について、一帯が石灰岩台地だったことから石灰岩や大理石、トゥファやトラヴァーチン(石灰質の岩石の一種)といった石材はすべて地元のものを使用し、石灰岩でプラットフォームを築いた上に建設された。堅牢な外壁によって守られた要塞のような造りで、平面215×175〜182mの四角形の各辺中央に東西南北の順で銀門・鉄門・青銅門・金門という4つの門を有し、16もの塔がそびえていた。南側についてはそのまま海に面していたため塔は両端以外に存在せず、青銅門は船が停泊する海門となっていた。内部は銀門と鉄門を結ぶ東西のデクマヌス・マクシムスと、青銅門と金門を結ぶ南北のカルド・マクシムスというふたつの主要道路によって4分割され、南側が皇帝、北側が兵士や使用人・倉庫のエリアで、中央にペリスタイル(列柱廊で囲まれた中庭)が配された。

ペリスタイルの西にはかつて3つの神殿が立ち並んでいたが、いまなお形を留めているのはユピテル神殿で、後にキリスト教の洗礼堂に改装された。ペリスタイルの南の一帯がディオクレティアヌスが生活を行っていた皇帝のアパートメントで、そのエントランスが円形ホール・ロトンダだ。ペリスタイルの東に位置するオクタゴン(八角形の建物)はディオクレティアヌス霊廟で、かつては皇帝の石棺が収められていた。7世紀頃に世界最古級の大聖堂として改装され、サロナ司教・聖ドムニウスにちなんで聖ドムニウス大聖堂と命名された。

ディオクレティアヌスは311年に病没し、死後はローマ(世界遺産)を追放された皇帝の一族が生活していた。476年に西ローマ帝国が滅びると、混乱を経てビザンツ帝国領となり、宮殿は放棄された。7世紀にスラヴ人やアヴァール人によって近郊の主要都市サロナが破壊され、多くの避難民がスプリットに押し寄せた。ビザンツ皇帝ユスティニアノス2世は帝国の支配下に入ることを条件にスラヴ人に統治を任せ、町の再興が行われた。この時期にキリスト教徒がかつて弾圧を行ったディオクレティアヌスの霊廟を大聖堂、ユピテル神殿を洗礼堂に改装したようだ。その後、スプリットはクロアチア王国やハンガリー王国、ヴェネツィア共和国の支配を受け、ダルマチア地方の港湾都市としてありつづけた。ビザンツ時代はビザンツ様式、その後はロマネスク様式やゴシック様式の建造物や装飾・芸術が街を彩り、時代ごとにその表情を変えた。こうした中で中世の終わりには宮殿のほとんどが街並みに吸収されて姿を消し、人々の記憶から消え去った。

15世紀にはじまるヴェネツィア時代、スプリットはアドリア海中部の要衝として発展し、港湾都市としてはもちろん、バルカン半島を横断してヴェネツィア(世界遺産)とコンスタンティノープル(イスタンブール。世界遺産)を結ぶ陸路の中継地としても重要性を増した。そんな中でヴェネツィアのルネサンス様式やバロック様式が広がり、町は彩りを増した。しかし18世紀、ヴェネツィアがナポレオンのフランスに降伏すると、1797年にフランスとオーストリアで結ばれたカンポ・フォルミオ条約によってヴェネツィアはオーストリア帝国に吸収され、スプリットもその版図に入った。この後、スプリットはフランス帝国、ダルマチア王国、オーストリア=ハンガリー帝国と宗主国を変えた

ディオクレティアヌス宮殿の存在をふたたび世に知らしめたのが18世紀のスコットランドの建築家ロバート・アダムだ。イタリアで古典建築を学んだ帰路にスプリットに立ち寄り、遺跡の調査を行ってその成果を著書で発表した。アダムは「アダム様式」と呼ばれる古典の復興様式を提案し、イギリスの新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)に多大な影響を与えた。ディオクレティアヌス宮殿は間接的に、18世紀の新古典主義様式のブームの火付け役となったのである。

18~19世紀にスプリットでも新古典主義様式や歴史主義様式(ゴシック様式やルネサンス様式、バロック様式といった中世以降のスタイルを復興した様式)のブームが起こり、19~20世紀のアール・ヌーヴォーやモダニズム建築が旧市街に最後の彩りを加えた。

○資産の内容

世界遺産の資産としては一帯が地域で登録されており、周囲800mほどの宮殿エリアはもちろん、同等の大きさを持つ西側の旧市街(ポポロ広場のエリア)、さらに西のレプブリケ広場(プロクラティヴェ/共和国広場)や聖フランチェスコ修道院、東のアレクサンドリアの聖カタリナ修道院、北のストロマエル公園などを含んでいる。

ディオクレティアヌス宮殿は外壁と銀門・鉄門・青銅門・金門の4つの門、石畳の通路、セラーといった地下構造などが比較的よく残されており、特に中庭にあたるペリスタイルの保存状態がよい。ペリスタイルは建物の中央に配される列柱廊玄関を示すが、ディオクレティアヌス宮殿では皇帝のアパートメントと呼ばれる皇帝の居住エリアと3基の神殿、ディオクレティアヌス霊廟を接続していた。現在でも三方にコリント式の列柱が残されているほか、エジプトの神殿から運ばれたスフィンクス像が置かれている。

ペリスタイルの南に隣接するロトンダは皇帝のアパートメントのエントランスで、直径12m・高さ17mのドームを頂く円形のホールとなっている。ローマ時代のヴィッラ(別邸・別荘)のような造りをしていたというアパートメントの上部構造はほとんど残っていないが、ふたつのホールや食堂・風呂などの跡が発掘されており、特に皇帝のセラーと呼ばれる地下構造は状態がよく、主に食料やワインの倉庫として使用されていた。

ペリスタイルの西に位置するユピテル神殿は295~305年に建設されたと伝わる神殿で、ローマ神話の主神であるユピテルに捧げられていた。中世にキリスト教の洗礼堂に改修され、神像に替えて洗礼者聖ヨハネ像が設置された。窓のない長方形の空間で、天井はアーチを連ねた筒型ヴォールト(筒を半分に割ったような形の連続アーチ)となっている。装飾はほとんどないが、ポータル(玄関)や天井には各種の文様や神々の像を描いたレリーフ、内部にはキリスト教徒だったクロアチア王や五芒星などを刻んだレリーフが見られる。また、神殿の前には頭部のないスフィンクス像が置かれている。

ペリスタイルの東に隣接する八角形の聖ドムニウス大聖堂は4世紀はじめの建設で、ディオクレティアヌスの霊廟だったが7世紀頃に改修され、スプリットの守護聖人ドムニウスに捧げられた大聖堂となった。内部に収められていた皇帝の石棺は失われたが、ロマネスクの彫刻家アンドレア・ブヴィナのレリーフで覆われた木製ドアやゴシックの彫刻家ユーライ・ダルマティナツによる聖ストシャの祭壇、黄金装飾で覆われたバロック様式の主祭壇など多くの芸術作品が収められている。高さ57mを誇る鐘楼は1100年頃にロマネスク様式で建設されたもので、スプリットのランドマークとなっている。また、周辺にはローマ時代のモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)が残されている。

聖マルティナ教会はもともと金門近くの城壁の通路を利用して整備された衛兵所で、6世紀に教会堂に転用された。全長10m・幅1.64mという小さな空間だが、スプリットでも最古級を誇る教会堂で、9世紀にはロマネスク様式で改修されている。

聖マルティナ教会近郊にあるスプリット市立博物館はもともとパパリッチ宮殿(パパリチェヴァ宮殿)と呼ばれた建物で、15~16世紀にダルマチアの名建築家ジョルジオ・ダ・セベニコによってゴシックおよびルネサンス様式で建設された。1946年に市の歴史を表すさまざまな史資料を展示する博物館としてオープンしたが、建物自体もスプリットを代表する宮殿建築となっている。

宮殿の西門にあたる鉄門には11世紀に聖母教会の鐘楼が設置された。この門の西に広がっているのがポポロ広場、通称ピアッツァ(広場)あるいはナロドゥニ広場(人民広場)だ。ローマ時代、宮殿の中心はペリスタイルだったが、町が拡大すると中心は宮殿を出たポポロ広場に移動し、実質的に中央広場となった。周辺には1394年に築かれたロマネスク様式のチプリアニス=ベネデッティ宮殿や、15世紀に建てられたゴシック様式のカンビ宮殿、16世紀ルネサンス様式のカレピッチ宮殿とパブロビッチ宮殿、中世の市庁舎を19世紀に復元したゴシック・リバイバル様式の旧市庁舎、1902年に建設されたアール・ヌーヴォーのナキッチ宮殿など、多彩な時代の多様な建築が集まっている。

南のヴォチニ広場(果物広場)はもともと市場だった場所で、やはり歴史的な建物が集まっている。ヴェネツィア塔は15世紀に築かれた八角形の塔で、オスマン帝国による海からの攻撃はもちろん、市街の反乱や犯罪を取り締まるための監視塔にもなっていた。ミレシ宮殿は17~18世紀に築かれたバロック様式の宮殿で、1階のアーチや各種ペディメント(三角破風部分)、バルコニーの調和が美しく、ダルマチアを代表するバロック建築とされる。

宮殿の銀門の東に位置するのがアレクサンドリアの聖カタリナ修道院だ。1245年に創設されたドミニコ会の修道院で、1650年代にオスマン帝国に対する要塞を建設するためにいったん取り壊された。脅威が去ると同世紀末に修道院はバロック様式、修道院教会である聖ドミニコ教会はゴシック様式で再建された。修道院と教会堂は芸術的な祭壇や祭壇画・絵画・フレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)・ステンドグラスを有しており、修道院図書館は中世の貴重な写本を含めて13,500点以上の史資料を収蔵している。

資産の南西に位置する聖フランチェスコ修道院はフランシスコ会の修道院で、伝説によるとこの場所には304年にディオクレティアヌスのキリスト教弾圧で殉教した聖フェリックスに捧げられた教会堂が立っており、1237年にこの地を訪れたアッシジの聖フランチェスコが隣に修道院を創設したという。アレクサンドリアの聖カタリナ修道院と同様、1650年代に要塞建設のため修道院の多くが破壊されて石材が持ち去られ、オスマン帝国とヴェネツィアの間で争われたクレタ戦争(1645~69年)が終結した後で再建された。現在の建物は19~20世紀に歴史主義様式の一種であるロマネスク・リバイバル様式で再建されたものだが、修道院の中庭には13世紀当時のクロイスター(中庭を取り囲む回廊。ペリスタイルが発達したもの)が残されている。修道院には中世・近世から伝わる多くの祭壇や絵画・写本等があるほか、スプリットの著名人の石棺が数多く収められている。

資産のほぼ西端に位置するレプブリケ広場は市長アントニオ・バハモンティの主導で1859~67年に築かれた建造物群で、ヴェネツィアの建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・メドゥーナが設計を担当してネオ・ルネサンス様式で建設された。中心となる北ウイングは主に劇場で、東ウイングと西ウイングにはさまざまなテナントが入っており、南側は開けていて湾岸風景を眺めることができる。広場では歴史的な文化イベントや音楽祭が開催されており、市を代表する文化的空間となっている。

■構成資産

○スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

資料なし

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

資料なし

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

資料なし

■完全性

資料なし

■真正性

資料なし

■関連サイト

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