ロードス島の中世都市

Medieval City of Rhodes

  • ギリシア
  • 登録年:1988年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)(v)
  • 資産面積:65.85ha
世界遺産「ロードス島の中世都市」、ロードス要塞の城壁と堀
世界遺産「ロードス島の中世都市」、ロードス要塞の城壁と堀
世界遺産「ロードス島の中世都市」、騎士団長の館のポータル
世界遺産「ロードス島の中世都市」、騎士団長の館のポータル
世界遺産「ロードス島の中世都市」、騎士団長の館の中庭
世界遺産「ロードス島の中世都市」、騎士団長の館の中庭
世界遺産「ロードス島の中世都市」、スレイマニエ・モスクとロードスの街並み
世界遺産「ロードス島の中世都市」、スレイマニエ・モスクとロードスの街並み (C) Böhringer Friedrich
世界遺産「ロードス島の中世都市」、ロードスの街並み
世界遺産「ロードス島の中世都市」、ロードスの街並み。尖頭アーチなどにゴシック様式が見られる
世界遺産「ロードス島の中世都市」、聖ニコラス砦
世界遺産「ロードス島の中世都市」、聖ニコラス砦

■世界遺産概要

ロードスはヨーロッパへの玄関口であるアナトリア半島におけるキリスト教勢力最後の砦として聖ヨハネ騎士団(ロードス騎士団)がロードス島に整備した難攻不落の要塞都市で、1309~1523年にかけてその座を守り抜いた。イスラム教勢力であるオスマン帝国に奪取されたが、ゴシック様式を中心とする美しい街並みは現在まで引き継がれている。

○資産の歴史

アナトリア半島の南西沿岸部、エーゲ海とギリシア世界の東端に浮かぶロードス島は古来、ヨーロッパとアジア、アフリカを結ぶ要衝として政治的・軍事的・経済的に重要な位置を占め、中継都市として発達した。紀元前408年には建築家ミレトスのヒッポダモスによって計画都市が建設され、紀元前300年前後には港の入口に台座を含めて高さ50mにもなる太陽神ヘリオス像(アポロンの巨像/ロードスの巨像)が建設され、船は石像の股の下をくぐって入港したという。この巨像、いわゆるロードス島の巨像は古代ギリシアの旅人フィロンが記した「世界の七大景観(世界七不思議)」に選出されたが、紀元前226年の地震で倒壊したとされる。

やがてロードス島はローマ帝国の版図に入り、帝国分裂後はビザンツ帝国(東ローマ帝国)領となった。ロードス島が重要性を増すのはビザンツ帝国が衰退する11世紀以降だ。11世紀前半、ビザンツ帝国はアナトリア半島、バルカン半島南部、イタリア半島南部、エルサレム(世界遺産)を含むレヴァント地方を支配していたが、イスラム王朝であるセルジューク朝によってアナトリア半島やレヴァント地方の多くを失ってしまう。特に1071年のマラズギルトの戦いの敗北は決定的で、以来、多くのテュルク系(トルコ系)民族が小アジアに進出してトルコ化・イスラム化を進めた。

この危機に対し、ビザンツ皇帝アレクシオス1世が教皇ウルバヌス2世に援軍の派遣を要請して実施されたのが1096~99年の第1回十字軍だ。十字軍は聖地エルサレムを占領すると、エルサレム王国をはじめ数々の十字軍国家を建国した。またこの頃、修道士となった騎士階級の貴族を中心に騎士団(騎士修道会)が結成され、エルサレムの防衛に当たった。一例がテンプル騎士団であり聖ヨハネ騎士団だ。

1113年に結成された聖ヨハネ騎士団はエルサレムで病院と宿泊所を経営していたことからホスピタル騎士団とも呼ばれていた。十字軍国家の防衛を担当してクラック・デ・シュヴァリエ(世界遺産)などの要塞や100を超える砦を持ち、イスラム教勢力と激しく戦った。しかし、1187年にエジプト・アイユーブ朝の英雄サラディンに敗れてエルサレムが陥落。トリポリやアッコ(世界遺産)に撤退して十字軍とともに戦うも、1291年にアッコが落ちてキリスト教勢力は駆逐された。聖ヨハネ騎士団はキプロス島に撤退し、さらに1309年に教皇クレメンス5世の許可を得てロードス島に拠点を移し、ロードス騎士団と称して活動を続けた。

アナトリア半島より東と南はこうしてセルジューク朝、ルーム・セルジューク朝、イル・ハン国、オスマン帝国といったイスラム教勢力の手に落ちた。この結果、半島から18kmほどしか離れておらず、レヴァント地方やエジプトへの中継地でもあるロードス島は対イスラムの最前線となり、ロードス騎士団はイスラム教勢力と直接戦う唯一の騎士団として西ヨーロッパ社会の支持と支援を集めた。

ロードス騎士団はビザンツ時代の城壁を4倍に拡張して堀を掘り、ゴシック様式の街並みを整備して中世ヨーロッパ風の要塞都市を築き上げた。騎士団はエルサレムで学んだすぐれた要塞建築技術を持っており、コンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)のテオドシウスの城壁を参考に強力な市壁を張り巡らせた。

城内はアクロポリス、コラキオ(アッパー・タウン)、ボルゴ(ダウン・タウン)の3つに分割された。中心は丘の上のアクロポリスで、もともと立っていた要塞を改築して騎士団長の館(グランド・マスター宮殿)と行政庁が設置された。騎士団長の館は文字通り団長の宮殿であると同時に、戦時には司令部が置かれて城塞となった。騎士団長の館から港に延びる騎士通り(イッポトン通り)の周辺がコラキオで、騎士団の施設や騎士館(騎士団は言語ごと7~8つの軍団に分けられ、騎士館と呼ばれる本部を持っていた)、大聖堂などが立ち並んだ。これに対してボルゴは下町にあたり、聖カタリナ病院や聖三位一体教会、聖カタリナ教会、一般の住居や宿泊施設などが築かれた。

1444年にはエジプト・マムルーク朝の艦隊が島を包囲するも退け、1480年にはビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国のメフメト2世が170隻の船と10万の軍勢を率いて襲来するがこれにも耐え抜いた。オスマン帝国の遠征は1481年のメフメト2世の死で中止されたが、再来に備えてピエール・ドーブッソンやファブリツィオ・デル・カッレートといった騎士団長らはさらに防衛ラインを強化した。最新の大砲にも耐えられるように城壁の前に稜堡やテッレプレインと呼ばれる塁道を張り出させて星形要塞に改修し、11の堅牢な門を整備した。こうしてロードス島はヨーロッパでも類を見ないきわめて堅牢な要塞都市となった。

1522年、オスマン帝国のスレイマン1世が400隻の船と20万の軍勢を率いて襲来(ロードス包囲戦)。対する騎士団は7,000人足らずだったが、半年のあいだ持ちこたえた。弾薬が尽きたことからオスマン帝国と交渉を行い、ロードス島を去る代わりに住民への攻撃は行わず、これまで通りの生活を保証するという約束を交わして騎士団は島を離れた。聖ヨハネ騎士団はこの後、拠点をシチリア島に移し、さらにマルタ島のヴァレッタ(世界遺産)に移動してマルタ騎士団として活動を続ける。

オスマン帝国時代、教会堂はイスラム教の礼拝堂であるモスクに改修され、城外ではトルコ式の街並みが築かれたが、城壁内の既存の建物はほとんどそのまま維持された。ただ、騎士団長の館については1856年に弾薬の爆発で大きな被害を受け、1937~40年に復元された。ロードス島は1912年にイタリアに占領され、1948年にギリシアに編入された。

○資産の内容

世界遺産としては中世都市として地域で登録されており、資産は城壁内はもちろん、その周辺にまで及んでいる。

代表的な建造物として、まずロードス要塞が挙げられる。城壁は紀元前4世紀頃には建設されており、以降、時代時代の増改築を受けた。14世紀に誕生したロードス騎士団はイスラム教勢力の侵攻に対応するために、5世紀の完成以来一度も破られたことがないというテオドシウスの城壁(世界遺産)を参考に堅牢な城壁を建設した。ロードスの町はこのときに築かれた全長4km弱の城壁と堀に囲まれており、ダンボワーズ門や聖アタナシウス門、聖ヨハネ門、聖パウロ門をはじめとする11の城門で外部と接続され、ゲオルグ稜堡、イタリア稜堡、デルカレット稜堡といった円形や多角形に飛び出した稜堡や、海に浮かぶ聖ニコラス砦、防御壁であり砲台でもあるスペイン塁道やイタリア塁道といった施設・設備によって防御を固めた。その保存状態はきわめて良好で、映画『ナバロンの要塞』をはじめ数多く映画のロケ地にもなっている。

ロードスのもっとも重要な建物が騎士団長の館あるいはグランド・マスター宮殿だ。14世紀に築かれた城塞や宮殿・官邸・司令部を兼ねた方形のコートハウス(中庭を持つ建物)で、高い石壁に囲われた城壁のような外観を持ち、中央に広い中庭を有している。オスマン帝国の支配下でも城塞や宮殿として使用され、大戦中にはイタリア軍の要塞や司令部となった。建物は14世紀のゴシック様式だが、土台にはローマ時代やビザンツ時代の遺構が流用されており、ビザンツ様式のモザイク画などが残されている。

ロードスには数多くの教会堂が存在するが、聖ヨハネ騎士団以前から立っていた教会堂がパナギア・トウ・カストロ教会(聖母要塞教会)だ。11世紀頃の創建と見られるギリシア十字形に近いビザンツ様式の教会堂で、14世紀はじめにゴシック様式で改修された。壁は城壁のように堅牢で、特に海岸に面したアプス(後陣)は胸壁(凹部と凸部が並ぶ防御用の壁)を有している。聖ヨハネ騎士団による最初期の教会堂が騎士通りの聖三位一体教会だ。1365~74年頃の創建と見られ、オスマン時代にモスクとして改修されたが、15~16世紀に制作されたフレスコ画が残されている。旧市街の南東にもうひとつ聖三位一体教会があるが、こちらは正教会の教会堂だ。15世紀後半~16世紀はじめの創建で、十字形ながらその形は不規則で、やはりフレスコ画を見ることができる。聖カタリナ教会は14世紀に建てられた教会堂で、スレイマン1世がロードスを攻略して最初にモスクに改修した教会堂として知られる。14世紀のフレスコ画のほか、「最初の巡礼」を意味するイルク・ミフラーブ(ミフラーブはメッカの方角を示す聖龕)をはじめモスクの跡が残されている。

ロードス考古学博物館は1440年に建設が開始された聖ヨハネ騎士団の聖カタリナ病院を改装した建物で、建設当時の姿を伝えている。ギリシア時代の彫刻家ドイダルサスによる女神アフロディーテ像をはじめ、ロードス島に残る数多くの遺物や宝物が展示されている。近郊にあるヒポクラテス広場は中世からの広場で、噴水や騎士団庁舎は騎士団時代の建造物だ。

聖カタリナ騎士団ゲストハウスは1391~92年に建設された宿泊施設で、関係者や商人・旅行者の宿泊所として使用された。1480~81年の戦争や地震で多くが破壊されたが、16世紀に再建された。

騎士団長の館の南に位置するスレイマニエ・モスクは、スレイマン1世がロードス島を占領した1522年に建設したモスクで、ミナレット(礼拝を呼び掛けるための塔)と多数の扁平ドームを持つトルコ型のモスクとなっている。内部にはミフラーブやミンバル(階段状の説教壇)、ムカルナス(鍾乳石を模した天井飾り)といったイスラム教建築らしい設備や装飾が見られるが、現在は博物館として使用されている。隣接のハフィズ・アハメド・アガ図書館は1793年に設立されたオスマン帝国の図書館で、アラビア語文献の写本などが製作された。また、近くにあるバロック様式のロロイ時計塔は1852年に建設されたものだ。

カハル・シャローム・シナゴーグは1577年に完成したユダヤ教の礼拝堂=シナゴーグだ。オスマン時代、島には多くのユダヤ人が定住していて数々のシナゴーグが建てられたが、その中でも現存最古を誇る。島は1943年にナチス=ドイツの統治下に入って1,500人以上のユダヤ人が強制収容所に送還されたが、戦後人々はこの地に戻ってシナゴーグとして修復した。現在もシナゴーグとして活動しているほか、ハイシーズンには博物館として開放されている。

■構成資産

○ロードス島の中世都市

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ロードスの要塞はフランク(フランス、ドイツ、イタリア周辺)の人々を中心に建設された町であり、長いあいだ難攻不落を誇り、中世末期に地中海東部全域に影響を及ぼした。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ロードスの要塞はエルサレムで病院経営を行っていた聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)が強化したものであり、十字軍の時代に確立された軍事あるいは病院をベースとする独自のスタイルが応用されている。イスラム勢力による包囲の恐怖によってこうしたスタイルはロードス島で促進され、地中海東部地域の歴史を証明する重要な建築アンサンブルを伝えている。

ロードス島の中世都市の街並みはゴシック様式で築かれたもっとも美しい都市ひとつである。この都市が古代ヨーロッパ文明をリードしたエーゲ海に位置し、古代ギリシア世界の東端にあり、世界七不思議のひとつであるロードスの巨像が立っていた港に面していることはその歴史的重要性をさらに高めている。

こうした歴史は1523年に断ち切られたのではなく、モスクやハマム(浴場)といったイスラムのモニュメントを加えて1912年まで存続したことにも注目する必要がある。

○登録基準(v)=伝統集落や環境利用の顕著な例

フランクとオスマンの建物を中心としたロードス島の旧市街は伝統的な人間の居住地の重要なアンサンブルであり、複雑で継続的な文化変容が町を特徴付けている。ドデカネス諸島の伝統文化はゴシック様式との出合いによって変容し、1523年以降はさらにオスマン帝国がもたらしたイスラム教の様式によって変化した。1912年以前に建設されたすべての建造物や装飾は現代の生活環境の発展を受けて脆弱であり、偉大な宗教的・市民的・軍事的モニュメント、教会や修道院・モスク・ハマム・宮殿・砦・門・城壁は十分に保護されなければならない。

■完全性

資産には顕著な普遍的価値を構成するすべての要素が含まれており、法的に保護されている。ただ、観光や商業のための過剰な開発の危険性が高まっており、1912年以前のすべての建築・装飾要素を含めた環境や都市構造への圧力を最小限に抑えるために、土地の利用制限や建築規制の変更などを伴う資産の戦略的管理体制の構築が求められている。

■真正性

ロードス島の中世都市は当時の建築素材・建築的特徴および都市構造を維持している。オスマン帝国時代、城壁や建造物に加えられた改変は歴史的街並みの特徴を大幅に損なうようなものではなく、多彩に積み重なる資産の歴史的階層を示すユニークで不可欠な証拠となっている。

1912年以降のイタリア占領下でいくつかの主要な建造物について不適切な復元が行われ、都市景観に大きな影響を与えた。一例が騎士団長の館や聖ジョン教会で、1500年代のスタイルで再建されたが、これらは科学的な裏付けが不十分なまま建設されたものであり、現代の修復基準では禁止されているものである。しかしながらそれさえもロードス島の中世都市の歴史の普遍的で不可欠な部分として考慮されるべきである。

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