フィリッピの考古遺跡

Archaeological Site of Philippi

  • ギリシア
  • 登録年:2016年
  • 登録基準:文化遺産(iii)(iv)
  • 資産面積:87.545ha
  • バッファー・ゾーン:176.291ha
世界遺産「フィリッピの考古遺跡」、フォルムの跡
世界遺産「フィリッピの考古遺跡」、フォルムの跡 (C) Carole Raddato
世界遺産「フィリッピの考古遺跡」、エグナティア街道
世界遺産「フィリッピの考古遺跡」、エグナティア街道 (C) Carole Raddato
世界遺産「フィリッピの考古遺跡」、バシリカB
世界遺産「フィリッピの考古遺跡」、バシリカB
世界遺産「フィリッピの考古遺跡」、古代劇場
世界遺産「フィリッピの考古遺跡」、古代劇場 (C) MrPanyGoff

■世界遺産概要

フィリッピ(ピリッポイ)は紀元前356年にマケドニア王フィリッポス2世が金銀鉱山の近くに築いた都市で、ローマ時代にはヨーロッパとアジアを結ぶエグナティア街道の要衝として「小ローマ」と呼ばれるほどに繁栄した。キリスト教の使徒であり『新約聖書』の著者のひとりでもあるパウロがヨーロッパではじめてキリスト教共同体を組織した町ともいわれ、初期キリスト教の教会堂の遺構やモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)などのビザンツ芸術の傑作が確認できる。

○資産の歴史

フィリッピの地には紀元前1000年頃から人間の居住の跡があり、紀元前360年にタソス人の入植地が築かれ、水源が豊富だったことからクレニデス(泉)と名付けられた。まもなくトラキア人の圧力を受けたためマケドニアに支援を求め、フィリッポス2世は紀元前356年に町を併合して植民都市フィリッピとして整備した。フィリッピは水だけでなく金銀鉱山に恵まれ、農業や林業にも適しており、ギリシア植民都市ビザンティオン(後のコンスタンティノープル、イスタンブール。世界遺産)からヨーロッパへ向かうルート上にあって港も近いということで一気に発展した。特に新たな金鉱山が発見されたことでマケドニアは豊かになり、この地に金貨を製造する造幣局が建設された。

紀元前148年、共和政ローマとのマケドニア戦争に敗れてマケドニア王国は滅亡し、フィリッピは共和政ローマの属州となる。この頃、ビザンティオンとディラキウム(現在のアルバニアのドゥラス。イタリア方面へ向かう船の主要港)を結ぶエグナティア街道が整備され、フィリッピはアジアとヨーロッパを結ぶ要衝として発達した。紀元前44年にカエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル/シーザー)が暗殺されると、紀元前42年に実行犯であるブルートゥスとカシウスがアントニウスとオクタウィアヌスと争ったフィリッピの戦いが起こる。戦いは町の西方で行われ、アントニウスとオクタウィアヌスが勝利するとフィリッピには多くの兵士がそのまま入植を行った。紀元前27年、オクタウィアヌスはアウグストゥスの尊称を得て実質的に皇帝に即位(帝政ローマ/ローマ帝国のはじまり)。アウグストゥスは各地の植民都市を再構成してローマ都市として整備したが、フィリッピもコロニア・ユリア・アウグスタ・フィリペンシスとして再興され、多くの市民を受け入れて拡大した。この頃、新たに開拓された金銀山によって帝国に多くの利益をもたらした。

50年頃、パウロがフィリッピを訪れて宣教を行い、ヨーロッパ初といわれるキリスト教会組織を立ち上げる。その後、パウロはローマ(世界遺産)に赴いて皇帝ネロによる弾圧を受けて逮捕・監禁されるが、獄中で『新約聖書』に掲載されている「フィリピの信徒への手紙」を記している。この手紙は帝都ローマでキリスト教が急速に普及していること、獄中においても宣教を盛んに行っていること、弾圧下にあっても神の教えを守って宣教にいそしんでいることなどが記されている。ローマ帝国は長きにわたってキリスト教を弾圧したが、皇帝コンスタンティヌス1世が313年のミラノ勅令で公認し、テオドシウス1世が380年に国教化し、392年にはキリスト教以外の宗教が禁止された。395年に東西ローマ帝国が分裂するとフィリッピはビザンツ帝国(東ローマ帝国)の版図に入り、パウロによる宣教の地として巡礼地となった。4~6世紀の間にフィリッピには7堂の教会堂が築かれたという。

4世紀以降、フィリッピは民族大移動に悩まされ、6世紀にはスラヴ人の侵略を受けて破壊され、620年には大地震によって壊滅的な被害を受けて衰退した。9世紀にブルガリア帝国がこの地を支配するが、まもなくビザンツ帝国が奪還。10世紀にマケドニア朝のビザンツ皇帝ニケフォロス2世フォカスが城壁を修復して要塞を建設し、都市改造を行って前線基地として整備した。第4回十字軍(1202~04年)によってビザンツ帝国はいったん滅亡し、この混乱の中でフィリッピはさまざまな国の支配を受け、14世紀にはイスラム王朝であるオスマン帝国の版図に入る。こうした複雑な歴史の中で町は徐々に衰退し、16世紀には建築資材を供給する採石場になっていたという。

○資産の内容

世界遺産の資産としてはフィリッピの都市遺跡として地域で登録されている。フィリッピはかつて丘の上のアクロポリスから南斜面にかけて4つの城門を持つ全長3.5kmほどの城壁に囲まれた城郭都市で、南斜面をエグナティア街道が貫いており、この道に沿って都市が発展していた。ギリシア時代のアゴラやローマ時代のフォルムといった町の中心となる公共広場は街道の南に設置され、噴水・神殿・議会・裁判所・図書館・ストア(列柱廊のある細長い建物)などが広場を囲っていた。さらに周辺には商業市場・公衆浴場・パライストラ(屋内運動施設・体育学校)・ヘロオンなどの公共施設が建設された。ヘロオンはしばしばギリシア・ローマの中心に築かれた英雄を祀る神殿あるいは墓廟で、オクタゴン(八角形)と呼ばれるマウソレウム(廟)跡が残っている。ギリシア・ローマ時代、街道の北には神殿が立ち並んでおり、シルヴァヌスの聖域、アルテミスの聖域、古代エジプト神の聖域といったの神殿跡を見ることができる。神殿群の東のテアトロン(ギリシア劇場)はフィリッポス2世が築いたもので、ローマ時代に改修された。また、アクロポリスの頂に残る塔はビザンツ時代のものだ。

キリスト教が公認されて以降、神殿は教会堂に改修され、あるいは数々の教会堂が建設された。最初期の教会堂がパウロのバシリカ(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の建物)、あるいはパウロ大聖堂と呼ばれる教会堂で、ヘロオンのオクタゴンが4世紀頃に司教座のある大聖堂に改装された。付近にはパウロが投獄されたというパウロの牢獄やビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世が築いた洗礼堂、司教の住居である司教宮殿、巡礼門などが建てられ、オクタゴン・コンプレックスはフィリッピ随一の巡礼地として盛り上がった。街道北に残るバシリカA、バシリカC、南のバシリカBの遺構はいずれもビザンツ時代の教会堂だ。5世紀後半に建設されたバシリカAは150×50mを誇る三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)のバシリカで、翼廊を持つ十字形で、北西にナルテックス(拝廊)、南東に半円形のアプス(後陣)を持つ。550年頃に築かれたバシリカBはほぼ正方形で、ナルテックスやアプスを持ち、かつてはドームを冠していた。バシリカCは6世紀はじめの建設で、長方形のバシリカ式教会堂だったが、6世紀後半に翼廊を加えて十字形になった。

■構成資産

○フィリッピの考古遺跡

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(ii)「重要な文化交流の跡」、登録基準(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていたが、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は(ii)についてギリシア・ローマ・キリスト教という文化・伝統・制度の交流は他の多くの遺跡でも見られること、(vi)についてフィリッポス2世やブルータス、アウグストゥスといった歴史的人物やフィリッピの戦いなど歴史的事件との関係は登録基準(iii)などの方がふさわしく、またパウロの「フィリピの信徒への手紙」のような文学との関係については他にも同様の遺跡がありフィリッピに特有な特徴ではないとし、その価値が証明されていないとした。また、フィリッピの戦いの戦場跡は一部しか保護されておらず完全性を満たしていないため、資産に含めないこととなった。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

フィリッピはローマ帝国に組み込まれた植民都市であり、「小ローマ」と呼ばれた都市の構造と建築の跡を残す卓越した証拠である。また、教会の遺跡群は初期キリスト教会の設立と発展の様子を示す稀有な遺構である。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

フィリッピのモニュメントはさまざまな建築様式を例示し、特にローマ時代と初期キリスト教時代の建築の発展を反映している。中でもフォルムはローマ東部の公共空間の例として際立っている。教会堂についても八角形・十字形・ドーム式と多彩で、すぐれた初期キリスト教建築が伝えられている。

■完全性

フィリッピの城郭都市には顕著な普遍的価値を伝えるために必要な要素がすべて含まれており、開発や放置の対象になっておらず、適切に保全されている。古代のエグナティア街道のルートに沿って敷かれたアスファルトの道路は2014年に閉鎖され、博物館近くの西エントランス東側で解体される予定である。

■真正性

フィリッピの城郭都市は620年の地震で大きな被害を受けた。石材の一部は別の建物に利用するため持ち去られたが、碑文やモザイク画、オプス・セクティレ(モザイク画の一種)の床を含む多くの石材や装飾的要素は当時のまま残されている。現代の建造物や遺跡に対する介入は一般的に考古学的調査と遺跡の保護・強化のために必要な措置に限定されている。ほとんどの場合、遺跡の修復は可逆性の原則が尊重されており、城郭都市はその形状・デザイン・位置・環境といった点で本物であり、真正性は維持されている。

■関連サイト

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