フィレンツェ歴史地区

Historic Centre of Florence

  • イタリア
  • 登録年:1982年、2015年軽微な変更、2021年軽微な変更
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi)
  • 資産面積:532ha
  • バッファー・ゾーン:10,453ha
ミケランジェロ広場から眺めた世界遺産「フィレンツェ歴史地区」。中央がヴェッキオ宮殿、右がサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、左の橋がヴェッキオ橋
ミケランジェロ広場から眺めた世界遺産「フィレンツェ歴史地区」。中央がヴェッキオ宮殿のアルノルフォの塔、右がサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、左の橋がヴェッキオ橋
世界遺産「フィレンツェ歴史地区」、ヴェッキオ橋
世界遺産「フィレンツェ歴史地区」、世界でもっとも有名な橋のひとつ、ヴェッキオ橋。その上はサンタ・トリニタ橋、さらに奥がカッライア橋。ヴェッキオ橋では数多くの店舗が営業しており、上部にはヴァザーリの回廊が走っている
世界遺産「フィレンツェ歴史地区」、シニョリーア広場
世界遺産「フィレンツェ歴史地区」、シニョリーア広場。中央がヴェッキオ宮殿、その右がロッジア・デッラ・シニョーリア(ロッジア・デイ・ランツィ)、右端はアシクラツィオーニ・ジェネラーリ宮殿、(C) MatthiasKabel
世界遺産「フィレンツェ歴史地区」、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の西ファサード
世界遺産「フィレンツェ歴史地区」、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。左端に赤く見えるのがクーポラ、中央が西ファサード、中央右の塔がジョットの鐘楼、右端がサン・ジョヴァンニ洗礼堂。白大理石をベースに、緑の蛇紋岩と赤のテラコッタ(素焼き陶器)からなるトリカラー(3色)が際立っている
世界遺産「フィレンツェ歴史地区」、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂
世界遺産「フィレンツェ歴史地区」、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂。ファサードはルネサンス様式ながらバラ窓や尖頭アーチなどにゴシックの要素が見られ、身廊は重厚なロマネスク様式となっている
世界遺産「フィレンツェ歴史地区」、ベルニーニ、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチらを魅了した「世界一美しい教会」サント・スピリト聖堂
世界遺産「フィレンツェ歴史地区」、ベルニーニ、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチらを魅了した「世界一美しい教会」サント・スピリト聖堂 (C) Lucarelli

■世界遺産概要

「花の都」フィレンツェはイタリア中部トスカーナ州の州都で、愛を賛美し、美を称揚したルネサンスの中心地として知られる。フィレンツェ歴史地区はその中心で、「屋根のない博物館」の異名を持つようにダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ブルネレスキ、カンビオ、ボッティチェリら世界に名だたる建築家・芸術家の作品で華やかに彩られている。

なお、ピッティ宮殿のボーボリ庭園は世界遺産「トスカーナ地方のメディチ家の別荘と庭園群」の構成資産でもある。また、本遺産は2015年にバッファー・ゾーンを設定し、2021年に資産とバッファー・ゾーンの範囲をわずかに変更する軽微な変更が行われている。

○資産の歴史

トスカーナの丘に囲まれ、アルノ川の畔にたたずむフィレンツェは、ローマ時代に花の女神フローラの町として発展し、1115年にコムーネ(自治都市)として独立した。毛織物業と貿易で繁栄するとトスカーナ地方の主要都市に成長し、13世紀にフィレンツェ共和国の首都となった。

14~15世紀に急速に台頭したのがメディチ家だ。羊毛貿易商の家に生まれたジョヴァンニ・ディ・ビッチは一族と取引を行っていた銀行家からその技術と資産を受け継ぎ、フィレンツェにメディチ銀行を創設する。利息を取ることはキリスト教ではタブーのひとつとされていたが、金融業に素早く参入したジョヴァンニは教皇庁の会計院に入り込み、その財政を担った。ジョヴァンニを筆頭にメディチ家が活躍した1400年代のイタリア黄金期は400を意味する「クワトロチェント」と呼ばれている。

息子コジモ・デ・メディチは実質的にフィレンツェを支配するシニョーレ(領主)となり、メディチ家によるシニョリーア(支配体制)を整えた。メディチ銀行はロンドンやブリュッセル(世界遺産)、ジュネーヴ、アヴィニョン(世界遺産)など各地に支店を出し、フィレンツェが発行するフローリン金貨が基軸通貨になるとヨーロッパでも有数の権力と財力を手にした。

メディチ家は芸術や学問に対する造詣も深く、彫刻家・建築家であるフィリッポ・ブルネレスキやミケロッツォ・ディ・バルトロメオ、彫刻家ドナテッロらを庇護した。コジモがミケロッツォに設計を依頼した建物がメディチ・リッカルディ宮殿だ。また、古代ギリシア、特にプラトン哲学に感銘を受け、マルシリオ・フィチーノを中心に学者らを集めてプラトン・アカデミーを創設した。コジモの息子ピエロも建築家レオン・バッティスタ・アルベルティ、画家サンドロ・ボッティチェッリ、画家フィリッポ・リッピといった芸術家を庇護し、フィレンツェに華やかな文化をもたらした。

メディチ家の最盛期を築くのがロレンツォ・デ・メディチだ。フィレンツェはこの時代に盛期ルネサンスの時代を迎え、ルネサンス最大の巨匠ミケランジェロ・ブオナローティとレオナルド・ダ・ヴィンチのパトロン(後援者)となった。また、プラトン・アカデミーではクリストフォロ・ランディーノ、マルシリオ・フィチーノ、アンジェロ・ポリツィアーノ、ピコ・デラ・ミランドラらによってルネサンスのヒューマニズム(人文主義。人間性や人間の尊厳を重視する思想)が明確に確立された。

この少し前、11世紀に十字軍によるエルサレム遠征が行われると、ヴェネツィア(世界遺産)やジェノヴァ(世界遺産)といった海洋都市国家による西アジアとの東方貿易(レヴァント貿易)が活発化し、イスラム圏で研究されていたギリシア文明やローマ文明の文献が逆輸入された。また、1453年にビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅亡すると東方のすぐれた科学者や芸術家がフィレンツェに流れ込んだ。こうした流れを受けてギリシア・ローマの建築や芸術の再興が開始された。文芸復興=ルネサンスだ。

ルネサンス以前の中世、生活の全般においてキリスト教が中心的な役割を果たしていた。ギリシア・ローマで花開いた文化は否定され、個人の感覚・感情は厳しく制限され、科学でさえ教会に管理された。これに対してルネサンスの人々はギリシアやローマ的な自由を愛し、自分の感覚や感情にしたがってこの世のすばらしさを表現し、世界の謎を解明するために自由を行使した。あの世ではなくこの世で生きる者としての「人間」の「再生」。これこそがルネサンスの理念であり、ヒューマニズムが掲げる人間中心主義だった。

ルネサンス様式の特徴は、ギリシア・ローマ的なオーダー(基壇や柱・梁の構成様式)と、円や正方形・三角形を多用した幾何学的構造、シンメトリー(対称)や等間隔といった数学的均衡にある。アルベルティ設計のサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のファサード(正面)が典型的な例で、「凸」形の頂部に三角形のペディメント(破風)を頂き、コリント式の柱と半円アーチが等間隔で整然と並んでいる。カンビオのサンタ・クローチェ聖堂も同タイプだ。また、ルネサンスの象徴的な建物がサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオモ)の巨大なクーポラ(ドーム)だ。2世紀前半に建設された直径43mを誇るローマのパンテオン(世界遺産)のドームは中世の技術では再現不可能とされ、「奇跡」と讃えられていた。しかし、ブルネレスキは1434年に直径45mのクーポラを完成させ、1,300年を経てパンテオンを超えてみせた。これ以降、教会堂に巨大なドームを据えるデザインが広がり、ルネサンス様式のひとつの特徴となった。

ルネサンスをリードしたメディチ家だったが、15世紀末になると財政は悪化の一途をたどった。1494~1559年にイタリア、フランス、神聖ローマ帝国の間でイタリア戦争が勃発すると、1494年にフランスのシャルル8世がイタリアに侵攻。ロレンツォの息子ピエロ2世は西部の要衝ピサを奪われ、フランスに屈して賠償金の支払いに応じてしまう。市民はこれに激怒してメディチ家をフィレンツェから追放した。

1513年にジョヴァンニ・デ・メディチがレオ10世として教皇位に即位すると、メディチ家は重心をローマに移し、ルネサンスは最盛期を迎える。1532年には神聖ローマ皇帝カール5世によってメディチ家は公爵位を与えられ、フィレンツェ公国の君主として復帰する。さらに、1569年には教皇ピウス5世からトスカーナ大公に叙されてトスカーナ大公国に移行した。これらによってメディチ家は正式にフィレンツェの君主となり、領土はリグリア海からシエナなどを含むトスカーナ地方全域に広がった。

初代トスカーナ大公コジモ1世はやはり芸術への理解が深く、芸術家や建築家を庇護し、フィレンツェに数多くの宮殿・庭園・公共施設を建設した。この時代の代表的な建物には、ブルネレスキの設計でコジモ1世が改修して居城としたピッティ宮殿や、ジョルジョ・ヴァザーリ設計のフィレンツェ政庁(現・ウフィツィ美術館)、ヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿を結ぶヴァザーリの回廊などが挙げられる。

繁栄の最後を飾ったのがフェルディナンド1世で、ベルナルド・ブオンタレンティ設計のベルヴェデーレ要塞や、マッテオ・ニゲッティ設計のメディチ家礼拝堂・君主の礼拝堂などを設立した。

16世紀、大航海時代に入るとアフリカ航路、南北アメリカ大陸、インド航路の発見が相次いで地中海や北海の貿易は下火となり、繁栄は大西洋に面したスペイン、ポルトガル、後にはオランダ、フランス、イギリスに移行し(商業革命)、イタリアの繁栄は終わりを告げた。1737年にはメディチ家最後の大公ジャン・ガストーネが死去。これによりメディチ家が断絶し、財産はトスカーナ大公国に寄贈され、トスカーナもイタリアの小国の位置に落ち着いた。

○資産の内容

フィレンツェは古代から城壁に守られた城郭都市で、城壁は近世までに6度拡張された。最後の第6城壁がカンビオ設計で13~14世紀に建設された全長約8.5kmのアルノルフィーニの城壁で、世界遺産の資産はおおよそこの内側と、バッソ要塞やミケランジェロ広場など一部の周辺地域となっている。また、ピッティ宮殿裏のボーボリ庭園は世界遺産「トスカーナ地方のメディチ家の別荘と庭園群」の構成資産でもあり、資産が重複している。

城壁は18世紀に大公レオポルド2世が一帯を非武装化した際にほとんど撤去された。ただ、サン・ニッコロ門やサン・ガッロ門、サン・ジョルジョ門、ロマーナ門、サン・フレディアーノ門、サン・ミニアート門といった城門跡が残されている。また、古代の城壁の一部をなしていたパリャッツァの塔はローマ時代の土台の上に建設された6~7世紀の塔で、外観を保っている最古の建造物と見られている。要塞について、資産の北西にアレッサンドロ・デ・メディチが1534~37年に築いた五角形の星形要塞・バッソ要塞(サン・ジョヴァンニ・バティスタ要塞)が残されている。また、逆側の南東にはフェルディナンド1世が1590~95年に建設したベルヴェデーレ要塞(サンタ・マリア・イン・サン・ジョルジオ・デル・ベルヴェデーレ要塞)があり、ふたつの要塞で歴史地区を挟み込むように防衛していた。

また、資産内には西からカッライア橋、サンタ・トリニタ橋、ヴェッキオ橋、グラツィエ橋の4基の橋があるが、ヴェッキオ橋以外は第2次世界大戦中にドイツ軍によって破壊され、戦後、再建された。ヴェッキオ橋の場所には紀元前1世紀頃から橋が架かっていたようで、現在見られる全長95mのルネサンス様式の石橋はタッデオ・ガッディの設計で1345年頃に建設されたものと見られている。16世紀にはヴァザーリがヴェッキオ宮殿からピッティ宮殿に至る約1kmの回廊(ヴァザーリの回廊)を築き、橋の上を通過させている。

フィレンツェの宗教建築の筆頭はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂だ。カンビオの設計で1296~1436年と140年にわたって建設が進められた教会堂で、ゴシック様式をベースにクーポラはルネサンス様式、19世紀に完成したファサードはゴシックとルネサンスの折衷による歴史主義様式となっている。平面約160×95mのラテン十字形の三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)で、東・北・南に3つのアプス(後陣)を持つ三葉式となっている。ラテン十字の交差部に掲げられた巨大なクーポラは最大径45m・内部の高さ90m(外部は116.5m)というサイズで、いまなお世界最大の石造ドームとなっている。クーポラはブルネレスキの設計で、内外ふたつのレンガ・ドームからなる二重殻構造で、互いを補助剤で支え合わせ、さらに鉄と木材のリングでドームを引き締めることで自立させている。内部のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)はヴァザーリ作『最後の審判』で、世界の終わりに神が全人類を復活させて裁く様子を描いている。隣接するジョットの鐘楼は高さ約84mのゴシック様式で、ジョット・ディ・ボンドーネの設計であることからその名が付いた。壁面はアンドレア・ピサーノやドナテッロらの大理石彫刻で装飾されていたが、現在はレプリカに入れ替えられている。サン・ジョヴァンニ洗礼堂は11~12世紀に建設された八角形の集中式で、内部には洗礼を行うための洗礼盤が収められている。ドームは直径25.6mで、イエスや天使、使徒らを描いたモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)で覆われている。これ以外にも、大聖堂にあるミケランジェロの彫刻『フィレンツェのピエタ』や、洗礼堂の東門でロレンツォ・ギベルティによる『天国の門』をはじめ数多くの傑作が収められている。

他に重要な教会堂として、ロマネスク様式の傑作として知られるサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂が挙げられる。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式の教会堂で、木製天井を持つ重厚なロマネスク様式ながら、ファサードには等間隔で配置された半円アーチなどルネサンス様式の萌芽が見られる。一方、13世紀に起工され1420年に奉献されたサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂はラテン十字形・三廊式の教会堂で、特にゴシック様式の影響を受けたルネサンス様式のファサードで知られる。同様の造りはカンビオの設計と伝わるサンタ・クローチェ聖堂でも見られる。サンタ・クローチェ聖堂は数多くの芸術作品でも知られ、主祭壇のステンドグラスやジョットのフレスコ画、メディチ家礼拝堂やパッツィ家礼拝堂の見事な装飾は名高く、またミケランジェロ、ガリレオ、ロッシーニなど多くの有名人の墓があることから「フィレンツェのパンテオン」の異名を持つ。ブルネレスキの設計でジャン・ロレンツォ・ベルニーニに「世界一美しい教会」といわしめ、ミケランジェロやダ・ヴィンチも絶賛したという教会堂がサント・スピリト聖堂だ。1444~87年に築かれたラテン十字形・三廊式の教会堂で、十字形の交差部にドームを掲げた典型的なルネサンス様式となっている。アンマナティの大クロイスター(中庭を取り囲む回廊。ペリスタイルが発達したもの)や死者のクロイスターには半円アーチやドーリア式の列柱、整形庭園からなるルネサンス特有の空間が広がっている。同じくブルネレスキ設計のサン・ロレンツォ聖堂も似た造りだが、この教会堂では十字形の交差部に加えてアプスの西に隣接したメディチ家礼拝堂の君主の礼拝堂に巨大なドームを冠している。教会堂は15世紀の建設だがメディチ家礼拝堂はコジモ1世の発案による16~17世紀の建設で、直径28m・高さ59mを誇る君主の礼拝堂のクーポラはドームとしてフィレンツェ第2位の大きさを誇る。君主の礼拝堂の左右に新旧の聖具室があり(これらを総称してメディチ家礼拝堂という)、新聖具室はミケランジェロの設計となっている。サンタ・マリア・デル・カルミネ教会は1268年創建で1782年にバロック様式で改築されたラテン十字形・単廊式の教会堂で、交差廊のクーポラなどフィレンツェらしい意匠で知られる。フレスコ画やスタッコ細工で覆われた身廊のバロック装飾や、マサッチオやマソリーノのフレスコ画で彩られたブランカッチ礼拝堂は有名だ。これ以外にもルネサンス様式のサンタ・トリニータ聖堂やバロック様式のサン・マルコ聖堂、彫刻やフレスコ画・ステンドグラスなど芸術空間が広がるオンサンミケーレ教会などすばらしい教会堂は数多い。

宮殿建築としては、まずヴェッキオ宮殿(現・フィレンツェ市庁舎)が挙げられる。カンビオの設計で1299~1314年にかけてゴシック様式で建設されたメディチ家の居城で、1540~50年代にコジモ1世によってヴァザーリの設計でルネサンス様式で拡張された。もともとプリオーリ宮殿、シニョーリア宮殿と呼ばれていたが、コジモ1世が居城をピッティ宮殿に移した1565年以降にヴェッキオ宮殿の名が付いた。3つの中庭と高さ94mを誇るアルノルフォの塔があり、内部には最大のホールでダ・ヴィンチとミケランジェロの巨大なフレスコ画が競い合うチンクエチェントのサロンや、ルネサンス・バロックの絵画で覆い尽くされたフランチェスコ1世のストゥディオーロ(書斎)、レオ10世やコジモ1世、クレメンス7世のサロンといった数多くの豪奢な部屋がある。メディチ家のフィレンツェ公国あるいはトスカーナ大公の居城がピッティ宮殿だ。もともとメディチ家のライバルであるピッティ家がブルネレスキとその弟子ルカ・ファンチェッリの設計で建設をはじめた宮殿で、コジモ1世が買い取ってバルトロメオ・アンマナーティの設計で改修された。ルネサンス様式の広大な宮殿で、メディチ家の至宝を集めたピッティ美術館や近代美術館、銀器博物館など数々の博物館・美術館が入っているほか、隣接のボーボリ庭園は整然とした区画と泉水を特徴とするルネサンス様式のイタリア式庭園の傑作として知られる。メディチ・リッカルディ宮殿はコジモ・デ・メディチがミケロッツォに依頼して1444~84年に建設した宮殿で、ルネサンス様式の中でも古典主義の色彩が強く出ている。特にルネサンスの巨匠ベノッツォ・ゴッツォリによるフレスコ画で覆われたマージ礼拝堂や、ルカ・ジョルダーノの絵で彩られた鏡の間は非常に名高い。ストロッツィ宮殿はベネデット・ダ・マイアーノの設計で15~16世紀に建設されたルネサンス様式の傑作で、ストロッツィ家の居城となっていた。コルシーニ・アル・パリオーネ宮殿はコルシーニ家によって17世紀に築かれたバロック様式の宮殿だ。これ以外にもバルトリーニ・サリンベーニ宮殿やビアンカ・カッペッロ宮殿、ルチェッライ宮殿、スピニフェローニ宮殿など数多くの宮殿が存在する。

公共建築としては、まずウフィツィ美術館が挙げられる。建物はもともとフィレンツェ政庁としてコジモ1世がヴァザーリに依頼して1560~80年に築かせたルネサンス様式の建物で、フランチェスコ1世の時代に完成した。フランチェスコ1世が16世紀後半にコレクションの一部を公開したことから美術館としての歴史がはじまった。18世紀にメディチ家が断絶するとコレクションはトスカーナ大公国に寄贈され、1769年に一般公開が開始された。ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、カラヴァッジョなど、フィレンツェと関係の深い芸術家のすぐれた作品を数多く収蔵している。サン・マルコ美術館はもともとドミニコ会の修道院で、ミケロッツォの設計で1438~43年にルネサンス様式で建設された。アンジェリコをはじめ著名なフレスコ画が数多く見られる。スペダーレ・デグリ・イノチェンティ(イノチェンティ博物館)はヨーロッパ初の児童養護施設で、ルネサンスの掲げるヒューマニズム(人間中心主義)を体現するものとなった。ブルネレスキによるルネサンス建築で、ファサードの前面や中庭を取り囲むロッジア(柱廊装飾)は後の建築に多大な影響を与えた。ロレンツォ・メディチ図書館(メディチア・ラウレンツィアーナ図書館)はサン・ロレンツォ聖堂に隣接する図書館で、16世紀後半にジュリオ・デ・メディチ(教皇クレメンス7世)がミケランジェロに依頼して建設した。メディチ家が収集した蔵書や写本が収蔵され、ルネサンス様式ながらマニエリスムやバロックを先取りした試みが散見される。

■構成資産

○フィレンツェ歴史地区

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

フィレンツェの都市コンプレックスはそれ自体がユニークな芸術的表現であり、完全なる「シェフ・ドゥーヴル(傑作)」であり、6世紀以上にわたる継続的な創造の成果である。美術館や博物館(国立考古学博物館、ウフィツィ美術館、バルジェロ美術館、ピッティ宮殿パラティーナ美術館、アカデミア美術館)に加え、建築においてもサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂と洗礼堂、ジョットの鐘楼、シニョーリア広場、ヴェッキオ宮殿とウフィツィ宮殿、サン・ロレンツォ聖堂、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂、サンタ・クローチェ聖堂とパッツィ礼拝堂、サント・スピリト聖堂、サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂、フラ・アンジェリコの絵画を収蔵するサン・マルコ修道院といった世界最高峰の芸術・建築作品がこの地に集まっている。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

クワトロチェント以降、フィレンツェはルネサンスの拠点となり、当初はイタリア、やがてヨーロッパ全域の芸術と建築の発展に多大な影響を及ぼした。ルネサンスの芸術原理は15世紀のはじめ頃、ブルネレスキ、ドナテッロ、マサッチオに定義され、ふたりの歴史的天才、ダ・ヴィンチとミケランジェロで頂点に達した。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

フィレンツェ歴史地区は中世およびルネサンスの商業都市としての力を特有な一貫性を持った際立った方法で証明している。フィレンツェには街路、要塞化された宮殿(スピニ・フェローニ宮殿、ポデスタ宮殿、ヴェッキオ宮殿等)、ロッジア(ファサードに柱廊装飾を持つ建物。ロッジア・デル・ビガッロ、ロッジア・ディ・ランツィ、ロッジア・デッリ・イノチェンティ、ロッジア・デル・メルカート・ヌオーヴォ等)、噴水、商店が並ぶ14世紀のすばらしい橋(ヴェッキオ橋)といった都市の繁栄を象徴する古くからの貴重な建造物群が保存されている。そしてまたオルサンミケーレ教会といったモニュメントには種々の商取引の様子がすばらしい芸術の数々で示されている。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

フィレンツェは14~17世紀にかけてヨーロッパ随一の政治・経済大国であり、貴族や銀行家たちはその崇高さを一流の建造物で表現して町を彩った。一例が、ルチェッライ宮殿、ストロッツィ宮殿、ゴンディ宮殿、メディチ・リッカルディ宮殿、パンドルフィニ宮殿、ピッティ宮殿、ボーボリ庭園、サン・ロレンツォ聖堂旧聖具室、メディチ家礼拝堂、ロレンツォ・メディチ図書館だ。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

フィレンツェは普遍的に重要な出来事に大いに関連している。ルネサンスの概念はすべての原因である「一」に集約するというプラトニズムを神によって再解釈したネオ・プラトニズムによって可能になった。こうした思想や哲学はメディチ家が主催したプラトン・アカデミーのランディーノ、フィチーノ、ミランドラらによって体系化され、現代に続くヒューマニズムを生み出した。

■完全性

フィレンツェ歴史地区は顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を備えている。14世紀に築かれたアルノルフィーニの城壁に囲まれたこの町には、狭い石畳の街路を持つ中世およびルネサンス期の都市がそのまま伝わるクアドリラテロ・ロマーノ、現在のレプッブリカ広場がある。こうした歴史地区の都市環境はほとんど手付かずのままであり、背景をなす周囲の丘はこうした建造物群と絶妙に調和している。これらはトスカーナの代表的な景観であり、その価値をよく引き継いでいる。

歴史地区に対する脅威の多くは都市交通による大気汚染や居住者の減少などマスツーリズム(大規模観光)に関連する。また自然災害、特に洪水リスクも文化遺産と景観に対する脅威となっている。2006年の管理計画では洪水の際に取るべき緊急対策を規定することでこうした懸念に対処している。

■真正性

トスカーナの丘に囲まれ、アルノ川に二分されたフィレンツェの構造は何世紀にもわたって変化していない。フィレンツェの人々は自らの建築史を理解しており、砂岩であるピエトラ・フォルテやピエトラ・セレナ、石膏、漆喰といった伝統的な建材と特有の工法でこうした建造物を保全してきた。

フィレンツェ歴史地区は建造物の容積と装飾の両面で際立った特徴を有しており、狭い路地のある都市形態に代表される中世のレイアウトや、ピッティ宮殿の印象的な構造に代表されるルネサンスの本性が尊重され引き継がれている。フィレンツェがイタリアの首都だった19世紀の改造にもかかわらず、歴史地区においてこうした価値は依然として明確にありつづけている。

歴史地区に位置する手工芸品店をはじめとするフィレンツェ特有の伝統的な店の数々はこの地の過去を具体的に証言しており、都市の歴史的イメージを伝える卓越した伝統継続性を保持している。

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