11世紀にシチリア島とイタリア半島南部に入植したノルマン人は1130年にシチリア王国ノルマン朝(オートヴィル朝)を建て、ゲルマン、フランス、ラテン、ランゴバルド、ビザンツ、ユダヤ、イスラムといった種々の文化を取り入れて独自の文化を開花させた。本遺産は1194年まで続くノルマン朝によってパレルモ、チェファル、モンレアーレに建設された9件の教会堂・宮殿・橋を登録している。
古代、シチリア島は地中海貿易を制したフェニキア人やギリシア人のヨーロッパ西部の拠点となり、パレルモは紀元前3世紀ほどまでフェニキアの植民都市となっていた。紀元前264~前241年の第1次ポエニ戦争を機に共和政ローマに組み込まれ、476年の西ローマ帝国滅亡後はヴァンダル王国や東ゴート王国といったゲルマン系国家の時代を経て、6~9世紀までビザンツ帝国(東ローマ帝国)の版図に入った。8世紀頃から北アフリカのイスラム教徒による侵攻がはじまり、830年頃にチュニジアを拠点とするアグラブ朝がシチリア島を征服。ワーリー(知事)やアミール(総督)を置いて統治したが君主に近い権力を持ち、半ば独立していた(シチリア首長国)。
10世紀、ヴァイキングで知られる北ヨーロッパのゲルマン系ノルマン人が地中海へ進出し、11世紀はじめにイタリア南部やシチリア島に入植した。ロベルト・イル・グイスカルドがイタリア半島南部をイスラム教勢力から奪うと、この功績で1059年に教皇ニコラウス2世から公爵位を与えられた。また、1076年までに弟のルッジェーロ1世がシチリア島のシチリア首長国を打ち破り、島の多くを征服して伯爵位を得た。1130年にはその息子ルッジェーロ2世が対立教皇(正統と認められていない教皇)のアナクレトゥス2世から王位を得てパレルモを首都にシチリア王国を建国。1137年にはナポリ公国を征服して版図に収めた。後に教皇インノケンティウス2世がシチリアの王位とナポリ(世界遺産)の公爵位を正式に認めている。
ヨーロッパ各地を旅したノルマン人は宗教や文化に寛容で、ローマ・カトリック、正教会、イスラム教、ユダヤ教といった宗教や、ゲルマン(ノルマン)、ラテン、ビザンツ、ユダヤ、ランゴバルドなどの文化を吸収した。一例がルッジェーロ2世が建設したパラティーナ礼拝堂で、全体は厚い壁や柱を持つロマネスク様式の一種であるノルマン様式の重厚な造りながら、内部はイタリアのロマネスク様式の三廊式バシリカで、黄金のモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)はビザンツ美術の傑作でビザンツ様式のドームも見られる。一方、身廊の天井を飾るムカルナス(鍾乳石を象ったイスラム装飾)やサラセン・アーチと呼ばれる尖頭アーチはイスラム建築の影響だ。ルッジェーロ2世シチリア君主国の宮殿を自らの王宮に改修しているように、この時代に主要なイスラム建築はノルマン様式で建て替えられた。この際に多様な様式を取り入れて、ノルマン様式をシチリア特有のアラブ=ノルマン様式へと昇華させた。
11世紀にはこうしてノルマン人や十字軍、東方貿易(レヴァント貿易)などによってビザンツ帝国やイスラム教諸国との交流が進んで東方の産物や文化が輸入され、同時にイスラム教圏で盛んに研究されていたギリシア・ローマの文化が逆輸入された。特に文学・哲学・芸術・科学といった方面で受け入れ先になったのがかつてイスラム教圏だったパレルモとイベリア半島のトレド(世界遺産)で、こうした都市ではアラビア語からラテン語への文献の翻訳などが行われた(大翻訳時代)。こうした成果が花開くのが12世紀で、これらをきっかけとした文化的飛躍は「12世紀ルネサンス」と呼ばれている。
シチリア王国はシチリア島とイタリア半島南部、北アフリカの一部などを治めて大きな版図を築いたが、歴史が浅いこともあってしばしば教皇や神聖ローマ皇帝の介入を受けた。ホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は息子ハインリヒをルッジェーロ2世の娘コスタンツァに嫁がせている。ルッジェーロ2世の死後は息子であるグリエルモ1世・2世が跡を継ぎ、アラブ人を登用するなど多文化を共存させながら王国を維持した。しかし、グリエルモ2世には嗣子(跡取り)がいなかったため、1189年に亡くなるとハインリヒとコスタンツァが王位を主張して後継者争いが勃発。ハインリヒは神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世となった後、1194年にシチリア島に上陸して王位を奪った。これによりシチリア王国はノルマン朝からホーエンシュタウフェン朝に移行した。
世界遺産の構成資産は以下9件で、チェファル大聖堂がチェファル、モンレアーレ大聖堂がモンレアーレの物件で、他はパレルモに位置している。
「王宮とパラティーナ礼拝堂」の王宮はノルマン朝の王宮(レアーレ宮殿)であるノルマンニ宮殿を示す。ギリシア・ローマ以前から要塞が立つ丘に位置し、ビザンツ帝国が拡張した要塞をベースに、9世紀にシチリア首長国が宮殿の機能を備えたアルカサル(アラビア語のアル・クサルで城砦を意味する)を建設した。ルッジェーロ1世・2世が王宮として改修・拡張し、特にルッジェーロ2世は王室礼拝堂であるパラティーナ礼拝堂を設置した。ホーエンシュタウフェン朝以降は王宮として使用されなくなって衰退したが、16世紀のスペイン時代に副王の宮殿となり、ルネサンス様式で再建・改修が進められた。こうした歴史から各時代の様式が混在する複雑な構造を持つに至った。施設の一例がアラブ=ノルマン様式のピザーナ塔で、王家の居住区として使用されていた。最古の部屋のひとつであるルッジェーロ2世の間や、18世紀に王妃の部屋として改装されたポンペイの間などが有名だ。隣接するルネサンス・ウイングはその名の通りルネサンス様式の棟で、絵画で覆われたヘラクレスの間や代々の副王の肖像画が並べられた副王の間など、ルネサンス・バロックの装飾で彩られた豪奢な部屋の数々を有する。アーチと柱が四方を囲むマウエダの中庭は3層のロッジア(柱廊装飾)で装飾されたイタリア随一の中庭だ。パラティーナ礼拝堂は王宮でもっとも華麗な空間で、聖書や聖者を描いたビザンツ様式の黄金のモザイク画で覆われている。イスラム建築のムカルナスや象眼(素材を彫って別の素材をはめ込んだ装飾技法)細工、アラベスク(イスラム文様)なども見られ、種々の芸術文化を集大成したものとなっている。地下のサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会はノルマン様式の礼拝堂で、一転して装飾の少ない無骨な礼拝堂となっている。
「サン・ジョヴァンニ・デリ・エレミティ教会」は「T」形に近いラテン十字形の平面プランに5基の赤いドームと1基の鐘楼を持つユニークな教会堂で、創建はビザンツ帝国時代の6世紀にさかのぼる。シチリア首長国時代に破壊されたが、1132年頃にルッジェーロ2世が再建し、ベネディクト会の修道院に引き渡された。ノルマン様式の重厚な造りながら、赤いドームや方形の鐘楼、サラセン・アーチ(イスラム教圏に特有の尖頭アーチ)等はイスラム建築の影響で、アラブ=ノルマン様式の好例となっている。修道院は撤去されているが、アラブ風のペリスタイル(列柱廊で囲まれた中庭)の跡が残されている。
マルトラーナ教会の名で知られる「サンタ・マリア・デル・アミラグリオ教会」はもともと四角形の内部にギリシア十字形を組み込んだ内接十字式(クロス・イン・スクエア式)の教会堂で、鐘楼とエントランスのナルテックス(拝廊)、反対側に設置されたアプス(後陣)によって、鐘楼-ナルテックス-身廊-アプスの4つの建物が直線上に並ぶ現在の形が完成した。このうち鐘楼と身廊が12世紀のノルマン様式で、身廊の内部はビザンツ様式の黄金のモザイク画と18世紀に描かれた極彩色のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)で覆われている。ナルテックスは16世紀、アプスは17世紀の建設で、いずれもルネサンスあるいはバロック様式のレリーフや彫刻・フレスコ画・スタッコ(化粧漆喰)細工・絵画等で埋め尽くされている。ファサードはルネサンス様式のベースの中央にバロック様式のファサードを組み込んだ他に類を見ないものとなっている。
サンタ・マリア・デル・アミラグリオ教会に隣接する「サン・カタルド教会」は12世紀半ばに建設されたノルマン様式の教会堂だ。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)で、ほとんど装飾のないシンプルながら荘厳な意匠となっている。身廊の頂部の3基の赤いドームや壁に埋め込まれた埋め込みアーチ(ブラインド・アーチ)、透かし彫り、アラブ風の胸壁(凹部と凸部が並ぶ防御用の壁)などはイスラム建築の影響で、アラブ=ノルマン様式の典型とされる。
「パレルモ大聖堂」は正式名称を聖処女マリア被昇天メトロポリタン首座大司教聖堂という。もともとビザンツ時代に教会堂が建てられていた場所で、シチリア首長国の時代にモスクに改修され、1185年頃にグリエルモ2世によってノルマン様式の大聖堂が建設された。ラテン十字形・三廊式の教会堂で、14~15世紀の改修でファサードにカタルーニャ・ゴシックと呼ばれるスペイン・カタルーニャ地方のゴシック様式のポータル(玄関)や、キアラモンターノ・ゴシックと呼ばれるギザギザ模様のついたアーチ装飾が設置され、ルネサンス様式の南ポータルが増築された。交差廊のドームは17~18世紀に取り付けられたバロック様式のドームで、側廊の屋根の小ドーム群はマヨルカ焼き(ムーア人=イベリア半島のイスラム教徒の陶工を起源とするイタリアの錫釉陶器)で飾られている。四方に設置された方形の鐘楼はモスクのミナレット(イスラム教の礼拝を呼び掛けるための塔)を模したもので、12世紀の創建で時代時代の改修を受け、19世紀に頂部にゴシック・リバイバル様式のスパイア(ゴシック様式の尖塔)が設置された。内装は比較的シンプルだが、主祭壇や礼拝堂には多数の有名な彫刻が収められている。また、クリプト(地下聖堂)には12世紀以降のパレルモの偉人の石棺が収められている。
ラ・ジサと呼ばれるジサ宮殿は1165年にグリエルモ1世が「地上の楽園」と讃えられたイスラム庭園の中に築いた夏の離宮で、グリエルモ2世の時代に完成した。ノルマン様式の宮殿ながら、サラセン・アーチやムカルナス、アラベスクなどムーア建築(イベリア半島のイスラム建築)の影響が多分に見られる。宮殿の東に幾何学的に区画されたジサ庭園が広がっている。
「アンミラーリオ橋」はオレト川に架かっていた橋で、ルッジェーロ2世がビザンツ帝国のアンミラーリオ(提督)であるジョルジョ・ダンティオキアに建設を依頼したことからこの名が付いた。ルッジェーロ1世がパレルモを征服する際に、この場所に大天使ミカエルが現れたという伝説の場所でもある。1130~31年に建設されたノルマン様式の石橋で、大きさや形の異なる12のアーチを持ち、これらが水圧をコントロールすることで強度を上げている。きわめて堅牢で幾多の洪水を耐え抜いたが、1938年にオレト川の流れが運河に移されて以来、広場の中にたたずんでいる。
チェファルの「チェファル大聖堂」は正式名称をトラスフィグラチオーネ・バシリカ大聖堂といい、白く光り輝いたというイエスの変容(トラスフィグラチオーネ)を示している。ルッジェーロ2世が1131年に建設を開始したノルマン様式でラテン十字形・三廊式の教会堂で、完成は13世紀半ばと見られる。西ファサードがユニークで、左右にノルマン様式の重厚な塔を持ち、正面下部にコリント式の柱と尖頭アーチ・半円アーチが混在するポルティコ(柱廊玄関)、その上部に壁に埋め込まれた埋め込み式の連続交差アーチとロッジアが掲げられている。アプスはイエスや使徒を描いた12世紀ビザンツ様式の黄金のモザイク画で覆われており、クワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)は白と金を基調とした彫刻やレリーフで飾られている。
モンレアーレの「モンレアーレ大聖堂」は正式名称をサンタ・マリア・ヌオーヴァ大聖堂という。伝説によると、グリエルモ2世の夢の中に聖母マリアが現れてこの場所が聖地であることを説いたという。全長102m・幅40mという巨大な教会堂で、グリエルモ2世が1172年頃に建設を開始したが、13世紀後半にようやく完成を迎えた。ノルマン様式のラテン十字形・三廊式の教会堂で、西ファサードの両端に2基の塔を持つが、左側が未完成で終わったため高さが異なっている。中央下部に18世紀に設置されたドーリア式の柱を持つポルティコ、上部にはイスラム建築に多いサラセン・アーチの連続交差アーチのレリーフが見られる。身廊でもサラセン・アーチが多用されており、アラブ=ノルマン様式の特徴が見られる。身廊からアプスまで12~13世紀に築かれたビザンツ様式の黄金のモザイク画で覆われており、荘厳さを演出している。かつては大司教宮殿と修道院が隣接していたが、現在はクロイスター(中庭を取り囲む回廊)のみが残されている。クロイスターは12世紀に築かれたもので、47m四方の中庭を228本の大理石柱とサラセン・アーチが取り囲んでいる。中庭は中央の円を中心に四等分されているが、イスラム建築のチャハル・バーグ(四分庭園)の影響と見られる。
イスラム、ゲルマン(ノルマン)、ラテン、ビザンツ、ユダヤ、ランゴバルド、フランスなどさまざまな人々の共存を特徴とする政治・文化の証であり、多様な交流はビザンツ、イスラム、西洋の芸術的・建築的手法から派生した創造的でユニークな様式を生み出した。この新しい様式は南イタリアのティレニア海の建築の発展に貢献し、中世を通して地中海全域に波及した。
10~12世紀のノルマン人の活動を通してノルマン、イスラム、ビザンツの様式が統合され、ヨーロッパの新たな文化の礎となった。革新的で一貫した文化的再構成を通じて生まれた新たな空間的・建設的・装飾的価値観であり、歴史的にきわめて重要な建造物群である。
シチリア島にはシチリア王国ノルマン朝期の22の代表的な建造物があるが、歴史的重要性・保存状態・真正性などを考慮して9件がリストアップされた。その選択は適切で、顕著な普遍的価値を表現するすべての要素が含まれており、範囲は十分でバッファー・ゾーンも設けられており、法的保護を受けている。
時代時代の改修を受けているものの、9件の構成資産はシチリアのノルマン様式をおおむね引き継いでおり、形状やデザイン・素材・機能などは適切に保全されている。特にビザンツ様式のモザイク画について真正性は高く評価されている。