イタリア北東部ヴェネト州の都市パドヴァでは14世紀にフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)による芸術空間が発達し、「絵画都市パドヴァ=パドヴァ・ウルブス・ピクタ "Padova Urbs picta"」と呼ばれるほどに壁画の歴史に革新的な発展をもたらした。世界遺産にはその嚆矢となったジョット・ディ・ボンドーネによるスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画作品群を筆頭に、1302~97年に描かれたグアリエント・ディ・アルポ、ジュスト・デ・メナブオイ、アルティキエーロ・ダ・ゼーヴィオ、ヤコポ・ダヴァンツィ、ヤコポ・ダ・ヴェローナといったジョッテスキ(ジョット派)の画家による作品群を有する8件の建築コンプレックスが登録された。構成資産はかつての城郭都市パドヴァの城壁内に点在する4地域で、その中にスクロヴェーニ礼拝堂、エレミターニ教会、ラジョーネ宮殿、カッラレージ宮殿礼拝堂、パドヴァ大聖堂(ドゥオモ)洗礼堂、サンタントニオ・ディ・パドヴァ聖堂および修道院、サン・ジョルジョ小礼拝堂、サン・ミケーレ小礼拝堂が含まれている。
パドヴァは12世紀に独立した都市として確立され、神聖ローマ帝国のイタリアに対する介入に対してヴェローナ(世界遺産)やヴィチェンツァ(世界遺産)とともに1164年にヴェローナ同盟を結成し、1167年にロンバルディア同盟に発展した。この時代に都市として発達し、1222年にはイタリア第2位の歴史を誇るパドヴァ大学(植物園は世界遺産)が創設された。パドヴァはヴェローナ、ヴェネツィア(世界遺産)、ミラノといった都市と争い、市内でもエステ家やダ・ロマーノ家、デッラ・スカラ家(スカリジェリ家)などが勢力を競ったが、競争の中で開発が進んで13世紀に大いに繁栄した。
1318年にヤコポ・ダ・カッラーラが領主に選ばれてカッラーラ家(カッラレージ家)の支配がはじまった。1328年にヴェローナの名家であるデッラ・スカラ家のカングランデ1世・デッラ・スカラに征服されたが、1337年に同家を追放してパドヴァの支配権を固めた。以来、1405年にパドヴァ戦争に敗れてヴェネツィアの支配を受けるまでカッラーラ家の時代が続き、パドヴァは黄金期を迎えた。その名声はヴェローナのデッラ・スカラ家、ミラノのヴィスコンティ家に比肩し、科学や文学・芸術・建築を奨励して町を開発した。
画家ジョットはサンタントニオ・ディ・パドヴァ修道院の修道士に召されて1302年にパドヴァを訪れた。そして修道院のマドンナ・モラ礼拝堂などにジョットのパドヴァ最初期のフレスコ画作品群を残した。1303~05年にはジョットの最高傑作とされるスクロヴェーニ礼拝堂の革新的な作品群を仕上げた。ジョットの画風はしばしば後期ゴシック様式の国際ゴシックに分類され、リアルかつ繊細な人物・背景描写や、原色を多用した鮮烈な色彩、遠近法や立体感にこだわった三次元的な空間表現などを特徴とする。中世のビザンツ美術に見られるのっぺりとした二次元的で単調かつ教訓的な絵画と明確に異なり、人物や事物は客観的かつリアルに描かれており、生き生きとした感情表現をもたらした。これらは交流のあったパドヴァ大学などの科学者や哲学者・医師らの影響を感じさせ、一例として1298~1302年にパドヴァで研究を行っていた医師・哲学者ピエトロ・ダバノの名が挙げられる。こうした科学的な視点はルネサンスを先取りするもので、宗教画から独立した新しい絵画表現を生み出したことからジョットは「西洋絵画の父」と呼ばれている。
ジョットはしばらくアッシジに赴いた後、1310~17年にパドヴァのラジョーネ宮殿で多数のフレスコ画を完成させるが、これらの多くは1420年の火災で失われた。ただ、焼失後に描かれたフレスコ画作品群はジョットのコンセプトや画風を引き継いだもので、その絶大な影響力を物語っている。1324年にはジョットの弟子であるピエトロ・ダ・リミニとジュリアーノ・ダ・リミニがエレミターニ教会でフレスコ画を描いており、ジョットが開花させた新しいフレスコ表現をさらに進化させている。
ジョットは1337年に亡くなるが、そのスタイルはジョッテスキと呼ばれる14世紀のフレスコ画家に引き継がれた。その筆頭がカッラーラ家が抱えた最初の宮廷画家であるグアリエント・ディ・アルポで、1330年代~60年代にかけてパドヴァで精力的に活動を行い、サンタントニオ・ディ・パドヴァ聖堂やエレミターニ教会、カッラレージ宮殿をはじめ数多くの作品群を制作し、パドヴァを離れた後もイタリア各地でジョットのスタイルを広めた。二次元の絵画を立体的に見せる騙し絵の技法=トロンプ・ルイユを積極的に用いたことでも知られ、見た目の自然さ、リアルさがさらに追求された。
これを引き継いだのがカッラーラ家の2代目宮廷画家ジュスト・デ・メナブオイで、1370年代から90年に亡くなるまでパドヴァで活動を続け、エレミターニ教会、パドヴァ大聖堂洗礼堂、サンタントニオ・ディ・パドヴァ聖堂などに数々の傑作を残した。繊細さや色彩などでジョッテスキのスタイルを踏襲しつつも、ロマネスク様式やビザンツ様式の格調高い構図を復興するなど独自のスタイルを確立している。
アルティキエーロ・ダ・ゼーヴィオは1360年代~90年代にかけて主にパドヴァとヴェローナで活動を行った。サンタントニオ・ディ・パドヴァ聖堂などに作品を残しているが、特筆すべきはサン・ジョルジョ小礼拝堂の作品群で、柔らかい色彩できわめて繊細でリアルなフレスコ画となっている。ジョットの弟子でも特にその画風を引き継いでおり、スクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画と似た作品となっている。カッラーラ家の人々や芸術家といった当時の関係者の人物像がキリスト教を題材とした絵に描き込まれているが、これもジョットがスクロヴェーニ礼拝堂ではじめたものだ。
ヤコポ・ダヴァンツィは14世紀後半~15世紀はじめにイタリア各地で活躍したフレスコ画家で、1370年代にアルティキエーロ・ダ・ゼーヴィオとともにサンタントニオ・ディ・パドヴァ聖堂やサン・ジョルジョ小礼拝堂でフレスコ画を手掛けた。
ヤコポ・ダ・ヴェローナの生涯はほとんど明らかになっていないが、ラジョーネ宮殿やサンタントニオ・ディ・パドヴァ聖堂、サン・ジョルジョ小礼拝堂などで作品を仕上げた後、1397年にサン・ミケーレ小礼拝堂のフレスコ画作品群を完成させた。これが14世紀のパドヴァにおけるジョッテスキの最後の作品群となった。
1387年、パドヴァのカッラーラ家とヴェローナのデッラ・スカラ家の間で争われたカスタニャーロの戦いでカッラーラ家が勝利し、デッラ・スカラ家はヴェローナを失った。しかし、カッラーラ家は疲弊してミラノのヴィスコンティ家やヴェネツィアの介入を許し、1388年にパドヴァを追放された。1390年に一旦帰還するが、結局1404~05年のパドヴァ戦争でヴェネツィアに決定的な敗北を喫し、最後の領主フランチェスコ2世・ダ・カッラーラが処刑されてカッラーラ家の支配に終止符を打った。これ以降、パドヴァは長きにわたってヴェネツィア共和国の支配下に入る。
こうしてジョットとジョッテスキのフレスコ画の時代は終焉を迎えたが、15世紀にイタリアでルネサンスの文化が広がる中で、パドヴァではジョッテスキのスタイルとルネサンスのスタイルを融合させて新しい芸術様式=パドヴァ派を確立した。パドヴァは都市としての独立は失ったが、独自のスタイルを持つ芸術都市としてありつづけた。
世界遺産リストには4件の構成資産が地域で登録されており、その中に8件の建築コンプレックスが含まれている。
スクロヴェーニ礼拝堂(カペッラ・デッリ・スクロヴェーニ)は1303~05年に建設されたスクロヴェーニ家の墓廟を兼ねた私設礼拝堂で、エンリコ・デッリ・スクロヴェーニによって建設が指示された。レンガ造のロマネスク様式で東にアプス(後陣)を持ち、全長30m・幅8.4m・高さ12.7mほどのバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)の礼拝堂となっている。軒下に見られる鋸歯(きょし。ノコギリの歯)状のアーチ装飾であるロンバルディア帯(ロンバルド帯)や、柱廊装飾であるロッジア、細長い列をなすランセット窓、ポータル(玄関)に見られる縞模様ポリクロミアといった装飾が特徴的だが、外観は非常にシンプルだ。一転して内部は圧巻で、壁面も天井も青を基調とした極彩色のフレスコ画で覆われている。これらは建設と同時にジョットによって制作されたフレスコ画作品群で、完成後はヨーロッパの壁画史に革新をもたらした。フレスコ画の主題はイエスとマリアの生涯で39作品が費やされており、東を出発点に東→南→西→北→東と時計回りに物語が展開しており、『新約聖書』の内容を順番に追うことができる。これ以外に美徳と悪徳を描いた14作品や、西の壁を彩る巨大な『最後の審判』、星が散りばめられた身廊天井、アプスを彩る装飾帯といった作品が残されている。フレスコ画には遠近法やトロンプ・ルイユといった画期的な3次元表現が採用されており、人物や背景を細部まで描き込むことできわめて自然かつリアルな表現を実現している。特に人物については非常に表情豊かで、中世にはほとんど見られない感情表現となっている。また、原色に加えてパステル・カラーを多用することで鮮烈かつ微妙な色彩表現を行い、影にさえグラデーションをつけてリアリティを追求した。もうひとつ特徴的なのはパトロン(後援者)であるエンリコ・デッリ・スクロヴェーニの姿が『最後の審判』などに見られる点で、こうして関係者を描き込むことで彼らのキリスト教に対する信仰心と芸術の庇護者であるという自負を示した。礼拝堂にはジョットの作品以外にもジュスト・デ・メナブオイのフレスコ画やマルコ・ロマーノの彫像、ジョヴァンニ・ピサーノの祭壇をはじめ芸術作品は数多い。現在はエレミターニ教会とともにパドヴァ市立博物館の施設として管理されている。
エレミターニ教会(キエーザ・デッリ・エレミターニ)は1264~76年頃に建設された教会堂で、建築家ジョヴァンニ・デッリ・エレミターニの設計であったことから命名された。ゴシック様式でレンガ造、3つのアプスを持つバシリカ式のシンプルな教会堂で、ファサードにバラ窓やロッジア、ロンバルディア帯を有している。身廊の内部は白・赤・黄のポリクロミアの壁面で覆われており、複雑な木造天井を特徴とする。マッジョーレ礼拝堂に設置された主祭壇のフレスコ画を担当したのがグアリエント・ディ・アルポで、イエスの十二使徒のひとりであるフィリポとヤコブの物語を描いている。カッラーラ家の依頼で1360年代に描かれたもので、周辺にはカッラーラ家の棺が安置されている。また、サンタントニオ礼拝堂も彼の作品とされる。コルテッリエリ家の礼拝堂であるコルテッリエリ礼拝堂と、スピッセル家の礼拝堂であるスピッセル礼拝堂(サングィナッチ礼拝堂)のフレスコ画はジュスト・デ・メナブオイによって1370年代に制作されたものと見られる。前者は聖アウグスティヌス、後者は聖コスマスと聖ダミアヌスに捧げられた礼拝堂で、それぞれの聖人の物語をテーマとしている。オヴェタリ礼拝堂のフレスコ画も名高いが、こちらは15世紀半ばにアンドレア・マンテーニャやアンスイノ・ダ・フォルリといったルネサンス画家によって描かれたもので、ジョッテスキの影響を受けて発展したルネサンス様式パドヴァ派の仕事を確認することができる。
ラジョーネ宮殿(パラッツォ・デッラ・ラジョーネ)は大きなホールを示す「サローネ」と呼ばれたシティホールで、長辺79.92~81.49m・短辺27.80mという平行四辺形に近い平面プランを持つ。もともと裁判所として1218年頃に建設された建物で、1309年頃に建築家ジョヴァンニ・デッリ・エレミターニによって建物を取り巻く2層の木造ロッジアと、船底を逆さにしたような木造天井が設置された。ロッジアについては15世紀に石造で再建されて現在の外観が完成した。ジョットが1310~17年に星や星座を軸に占星術をテーマとしたフレスコ画を制作したが、1420年の火災で焼失した。14世紀のフレスコ画はジュスト・デ・メナブオイやヤコポ・ダ・ヴェローナの作品が下部にわずかに残されている程度だが、火災後に描かれたフレスコ画と深い関係が見られ、コンセプトや画風についてもともとのジョットのフレスコ画に強い影響を受けて復元されたものと思われる。特徴的なのは壁面上部に描かれたジョヴァンニ・ニコロ・ミレットやピエトロ・ダバーノらによる333点のフレスコ画で、ここで裁きを受けた人々のさまざまな姿が表現されている。かつて天井に描かれていた星や星座のフレスコ画は人間の運命を司る宇宙の法則と占星術を示したもので、天の下で生きる人間の様子をリアルに描き出したものといえそうだ。また、下部には聖書の物語やパドヴァの守護聖人である聖ジュスティーナや聖アントニオの物語が描かれている。
カッラレージ宮殿(ロッジア・デイ・カッラレージ/カッラーラ家のロッジア)の礼拝堂はその名の通りカッラーラ家の宮殿(ロッジアは柱廊装飾だが、柱廊装飾を前面に出した建物も意味する)で、1339~43年頃に建設された。本来宮殿はカピタニアート広場の東まで広がっていたが、西宮殿と東宮殿に分割された。14世紀のフレスコ画が残るのは2層のロッジアを持つ西宮殿で、1階の西部分にかつてカッラーラ家の礼拝堂が残されている。壁面に描かれているのはグアリエント・ディ・アルポによる『新約聖書』を題材とした一連のフレスコ画で、遠近法を駆使した自然でリアルな画風はジョットの影響を感じさせる。感情豊かな人物表現だけでなく、カッラーラ家の紋章や動植物・静物なども繊細かつ立体的に描かれており、ルネサンスで開花する客観的で科学的な視線が先取りされている。
パドヴァ大聖堂あるいはサンタ・マリア・アッスンタ大聖堂(ドゥオモ・ディ・パドヴァ/バシリカ・カテドラーレ・ディ・サンタ・マリア・アッスンタ)の洗礼堂(サン・ジョヴァンニ・バッティスタ洗礼堂)は1281年に奉献された洗礼のための堂宇で、カッラーラ家の墓廟としても使用された。ほぼ正方形で頂部に八角形のドームを冠する集中式(有心式。中心を持つ点対称かそれに近い平面プラン)の建物で、ロマネスク様式で外壁はロンバルディア帯で装飾されており、東側にアプスが設置されている。圧巻は内部で、四方の壁面とクーポラ(ドーム)、アプスのほぼ全面がフレスコ画で覆われており、『旧約聖書』や『新約聖書』をテーマとした壮大で神々しい空間が展開している。これらはジュスト・デ・メナブオイが1375~76年に描いたもので、彼の最高傑作と評されている。ジョット以来の画風を引き継いだものだが、特徴的なのがトロンプ・ルイユで、あたかも壁面から外に空間が続いているような立体感を出している。また、グラデーションや遠近感の出し方も絶妙で、人間の視覚を計算した表現となっている。また、カッラーラ家の人物像や詩人フランチェスコ・ペトラルカらを描き込んでいるのも特徴で、さまざまなシーンに登場している。フレスコ画は44点に分類されるが、もっとも巨大な作品がパラダイスを描いたクーポラの4作品だ。中央にイエスが描かれており、その周りを天使や聖人たちが取り囲み、聖母マリアが立っている。
サンタントニオ・ディ・パドヴァ聖堂あるいはパドヴァの聖アントニオ聖堂(バシリカ・ディ・サンタントニオ・ディ・パドヴァ)および修道院はパドヴァの聖アントニオに捧げられた聖堂と修道院を中心とした建築コンプレックスで、イタリア有数の巡礼地として知られる。聖アントニオはポルトガルのリスボン出身のフランシスコ会修道士で、総本山であるアッシジ(世界遺産)で修行した後、南フランスやイタリアで宣教を行い、北イタリアの責任者としてパドヴァ修道院に赴任した。1231年にパドヴァで亡くなると翌年には列聖(徳と聖性を認めて聖人の地位を与えること)され、死の直後からヨーロッパ各地から数多くの巡礼者が訪れたという。列聖された1232年には修道院の隣接地に聖アントニオのための教会堂、すなわちサンタントニオ・ディ・パドヴァ聖堂の建設がはじまり、1310年に竣工を迎えた。ロマネスク様式やゴシック様式、8基のクーポラにはビザンツ様式の影響も見られる折衷的な建物で、115m×55mという規模を誇る「†」形のラテン十字式・三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)の教会堂となっている。2基の鐘楼はイスラム建築のミナレット(礼拝を呼び掛けるための塔)を彷彿させる一方で、アプスの周りの放射状祭室はフランスやドイツのゴシック様式の典型で、さまざまなスタイルの影響を感じさせる。ファサードには大きなポルティコの上にロッジアが並んでおり、バラ窓やロンバルディア帯が見られ、頂部には尖塔がそびえている。聖堂内には数多くの礼拝堂が設けられているが、まず特筆すべきは聖堂が建設される以前から立っていたと伝わるマドンナ・モラ礼拝堂(黒の聖母礼拝堂)で、聖アントニオが晩年に通い詰めて聖母像に祈りを捧げ、死後この地に埋葬されたと伝えられている(その後、棺は聖堂中央部に移動)。礼拝堂にはパドヴァにおけるジョットの最初期、1302~03年頃の作品群が見られ、天使や預言者らの姿が描かれている。同時に14世紀のジョッテスキ最晩年のヤコポ・ダ・ヴェローナの作品群も見られ、最初期と最晩年の作品が同居している。また、ベネディツィオーニ礼拝堂(祝福礼拝堂)のフレスコ画もジョットの作品である可能性が指摘されている。14世紀初頭のフレスコ画で特筆すべきもうひとつの空間が修道院のチャプター・ホールだ。壁面はアッシジの聖フランチェスコの生涯を描いたフレスコ画で覆われており、現在は塗り直されたその一部が残されている。サン・ジャコモ礼拝堂(聖ヤコブ礼拝堂)はアルティキエーロ・ダ・ゼーヴィオとヤコポ・ダヴァンツィのふたりが1370年代に制作した一連のフレスコ画で彩られている。イエスの十二使徒のひとりであるヤコブの生涯や、イエスの磔刑、聖母マリアの物語などが描かれており、トロンプ・ルイユを多用して壁面を感じさせないリアルな作品に仕上がっている。ルカ・ベッルーディ祝福礼拝堂は聖アントニオの弟子である福者ルカ・ベッルーディに捧げられた礼拝堂で、その遺骨が収められている。内部のフレスコ画作品群はジュスト・デ・メナブオイによるもので、ルカ・ベッルーディの生涯をはじめ、『旧約聖書』の物語や、『新約聖書』のフィリポやヤコブといった使徒の生涯などが描かれている。聖堂や修道院にはこれ以外にも15世紀のヤコポ・ダ・モンタニャーナ、16世紀のジローラモ・テッサリ、17世紀のピエトロ・リベリ、19世紀のルドヴィコ・ザイツ、20世紀のピエトロ・アニゴーニをはじめ14~20世紀のフレスコ画がそろっており、きわめて重要なコレクションとなっている。フレスコ画以外、絵画・彫刻・レリーフなどについても数多くの傑作が伝えられている。
サン・ジョルジョ小礼拝堂(オラトリオ・ディ・サン・ジョルジョ)はソラーニャの侯爵ライモンディーノ・ルピがルピ家の礼拝堂として1377年頃に建設したもので、同家の墓廟としても使用された。外観はバシリカ式でゴシック様式のシンプルな礼拝堂ながら、内部は壁面も天井も華やかなフレスコ画で覆われている。建物もフレスコ画もスクロヴェーニ礼拝堂の構成を踏襲しており、非常によく似たものとなっている。フレスコ画を描いたのはアルティキエーロ・ダ・ゼーヴィオとヤコポ・ダ・ヴェローナで、主題はイエスの生涯と、ルピ家の守護聖人である聖ヤコブ、聖カタリナ、聖ルチアらの物語となっている。トロンプ・ルイユを駆使した立体表現と青を基調としたヴィヴィッドな色彩表現が特徴で、この辺りもスクロヴェーニ礼拝堂を彷彿させる。また、ルピ家の人々が描かれている点も特徴的で、聖母マリアにひざまずいている姿などが確認できる。
サン・ミケーレ小礼拝堂(オラトリオ・ディ・サン・ミケーレ)が立つ場所には中世初期のビザンツ帝国(東ローマ帝国)時代あるいはランゴバルド王国時代に創建された大天使ミカエル(ミケーレ)に捧げられた教会堂が立っていたが、パドヴァのカッラーラ家とミラノのヴィスコンティ家の争いに巻き込まれて1390年の火災で大きな被害を受けた。ピエトロ・ディ・バルトロメオ・デ・ボヴィは1397年に廃墟となった教会堂の北に聖母マリアに捧げるバシリカ式・ゴシック様式の簡素な私設礼拝堂=サン・ミケーレ小礼拝堂を建設した。フレスコ画を担当したのがヤコポ・ダ・ヴェローナで、14世紀にパドヴァで描かれたジョッテスキの最後の作品群となった。その特徴はトロンプ・ルイユや遠近法を用いた立体表現、人物のリアルな感情表現、古代のキリスト教物語の中に一緒に描き込まれた中世のパトロンや背景描写といったもので、それらを集大成したものとなった。フレスコ画の主題は聖母マリアの生涯で、他には大天使ミカエルやペンテコステ(聖霊降臨)などのフレスコ画も見られる。
本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」、(iii)「文化・文明の稀有な証拠」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、(i)についてジョットらによって示された作品群は人類の才能を示す創造的傑作であるという主張に対し、スクロヴェーニ礼拝堂の作品群については該当する可能性があるものの、すべての構成資産の作品群が同じレベルの創造的推進力と習熟を反映しているわけではないとし、(iii)についてジョットがフレスコ画に関して古代の技術の再興を行って美術史に重要な転換点を示したという主張に対し、ある時点の重要な文化・文明というより文化の交流によって生まれたという点で(ii)によってより適切に捉えられるとし、それらの顕著な普遍的価値は証明されていないと評した。
14世紀初頭のルネサンス・ヒューマニズム以前の時代において、提示されたパドヴァのフレスコ画作品群は科学・文学・視覚芸術の世界における転換点を示した重要人物によるアイデアの交流を示している。また、仕事を依頼するクライアントとパドヴァに招かれたイタリア諸都市の芸術家との間にさまざまな交流が生まれ、同時代の知識人や学者による科学的かつ占星術的な逸話やキリスト教史の新たな発想に触発されたさまざまなフレスコ画が創作された。芸術家たちはこうしたアイデアを視覚的に表現することに並々ならぬ才能を示し、その技術はパドヴァのフレスコ画を模倣すべきモデルに引き上げただけでなく、その後の時の経過にも屈せず長期にわたって影響力を残すものとなった。こうしてパドヴァに集った同時代の芸術家たちはイノベーションを目指してアイデアやノウハウの交換を行い、フレスコ画における新しいスタイルの創出に成功した。こうした新スタイルは14世紀のパドヴァに影響を与えただけでなく、イタリア・ルネサンス以降の数世紀にわたってフレスコ画制作におけるインスピレーションの基盤となった。こうした絵画技術の真の再生によって、パドヴァは世界を観察して物を描くという新しい技術を切り拓き、ルネサンスの視点の到来を予告した。また、これらのイノベーションは美術史における新時代の幕開けを告げるものであり、不可逆的な方向転換をもたらすものであった。
4件の構成資産はパドヴァの中心部に位置し、公有地や私有地、世俗的なものから宗教的なものまで8棟の建築コンプレックスで構成されている。こうした建造物群は技術・テーマ・年代・様式といった点で全体的に共通したアプローチを示しており、フレスコ画の物語と形象の表現に関して新しい挑戦を表している。選択された作品群は14世紀のイタリアのフレスコ画におけるイノベーションのあらゆる側面を完全に表現している。
パドヴァ市議会や文化活動省、パドヴァ大学といった所有者はこれらのフレスコ画作品群を良好な保存状態で維持するために必要な研究・保守・修復作業を推進している。こうした作業によってそれぞれのフレスコ画は個別に、あるいは相互に関連して読み解くことができるように整備されている。
資産の諸要素は素材とデザイン、特に職人の技術と設定、それらが呼び起こす宗教的概念に関連した精神と印象が真正であることを示しており、この真正性はフレスコ画と内部の建築空間、歴史的建造物の建築構造との不可分な結び付きにも表れている。すべての構成資産においてフレスコ画の作品群、フレスコ画が塗装された素材の支持体、漆喰表面、フレスコ画に使用された顔料や結合剤、そして絵それ自体がオリジナルである証拠が残されている。これまでスクロヴェーニ礼拝堂、パドヴァ大聖堂洗礼堂、カッラレージ宮殿礼拝堂などでフレスコ画の一部が剥離したことがあったが、こうした断片はすべて過去の保全修復によって元の位置に戻されている。
パドヴァのフレスコ画作品群は現在でも完全に読み取ることが可能であり、その中で表現されている図像は14世紀の著名な芸術家による真正の作品であることが確認できる。また、すべてのフレスコ画は元の場所、描かれたまさにその場所に残されている。これらのフレスコ画作品群を取り巻く全体的な状況、関係の作品以外の作品群を有する建造物群を含む周辺地域は旧市街の市壁に囲まれた都市の中心部に位置し、現在の歴史的都市の中心部と一致している。