ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度

Genoa: Le Strade Nuove and the system of the Palazzi dei Rolli

  • イタリア
  • 登録年:2006年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:15.777ha
  • バッファー・ゾーン:113ha
世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度」、ガリバルディ通り。右がパラッツォ・ドリア=トゥルシ、左奥にわずかに見える赤い建物がパラッツォ・ロッソ
世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度」、ガリバルディ通り。右がパラッツォ・ドリア=トゥルシ、左奥にわずかに見える赤い建物がパラッツォ・ロッソ (C) Alex2015Genova
世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度」、ガリバルディ通り
世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度」、ガリバルディ通り。右がパラッツォ・レルカリ=パロディ、左がパラッツォ・カッレガ=カタルディ (C) Zairon
世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度」、パラッツォ・ステファノ・バルビあるいはパラッツォ・レアーレ
世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度」、パラッツォ・ステファノ・バルビあるいはパラッツォ・レアーレ (C) Palickap
世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度」、パラッツォ・ステファノ・バルビの鏡のギャラリー
世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度」、パラッツォ・ステファノ・バルビの鏡のギャラリー (C) Steven Lek
世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度」、正面がパラッツォ・ロッソ、右がパラッツォ・ビアンコ
世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度」、正面がパラッツォ・ロッソ、右がパラッツォ・ビアンコ (C) Alessandro giudice

■世界遺産概要

イタリア北西部リグリア州の州都ジェノヴァは中世、海洋貿易で発達し、イタリア4大海洋都市国家のひとつに数えられた。近世に入るとスペイン帝国などを支える金融センターとなり、ジェノヴァ中心部には数百軒の宮殿が築かれた。特にストラーダ・ヌオーヴァと呼ばれる3本の新街路には最上級の宮殿群が建設された。世界遺産にはこれら3街路に位置し、16~17世紀に築かれたルネサンス、マニエリスム、バロック様式の42宮殿が登録されている。

なお、「ストラーダ・ヌオーヴァ」はイタリア語で「新しい街路」を意味し、世界遺産名にある「ストラーデ・ヌオーヴェ」はその複数形にあたる。また、「パラッツィ」は宮殿を示す「パラッツォ」の複数形で、ストラーデ・ヌオーヴェの宮殿群は「ロッリ」と呼ばれる迎賓館目録に登録され、賓客をもてなす迎賓館として使用された。本遺産では宮殿名を「パラッツォ・○○」の形で示しているが、日本語では「○○宮殿」と訳されることが多い。

○資産の歴史

天然の良港に恵まれたジェノヴァは古代から港町として発展し、ローマ時代には帝国の海軍基地にもなって港湾都市として発達した。11世紀にコムーネ(自治都市)として独立してジェノヴァ共和国が成立し、地中海貿易に参戦。ビザンツ帝国やレヴァント地方(現在のシリア・ヨルダン・レバノン・イスラエル周辺)との遠隔地貿易、いわゆる東方貿易(レヴァント貿易)で莫大な富を築き、ヴェネツィアやピサ、アマルフィと並ぶイタリア4大海洋都市国家(すべて世界遺産)に数えられた。1096年の第1回十字軍を皮切りに十字軍の遠征がはじまると、ジェノヴァはヴェネツィアとともに中心的な役割を果たした。イスラム教徒と戦ってはいたがムスリム商人(イスラム教徒の商人)との取引は拡大し、西アジアや北アフリカに拠点を設けて地中海貿易は拡大した。12世紀にアマルフィ、13世紀にピサが没落するとジェノヴァはヴェネツィアと並ぶ地中海の覇者となり、「海の支配者 "la Dominante dei mari"」と呼ばれた。13~14世紀にかけて4次にわたるヴェネツィア=ジェノヴァ戦争が勃発し、両国は甚大な被害を出して終戦を迎えた。この戦争やオスマン帝国の地中海進出によって東方貿易は衰退した。

15世紀に大航海時代がはじまると新世界(ヨーロッパ人が大航海時代に発見した南北アメリカ大陸をはじめとする新たな土地)との交易が活発化し、地中海貿易は衰退して海洋都市としてのジェノヴァの繁栄は終了した。しかし、黄金世紀を迎えるスペインに対する出資を中心に金融都市として成長し、再興に成功。16~17世紀には黄金時代を迎え、町にはルネサンスやマニエリスム、バロック様式の宮殿が立ち並んだ。

中世、ジェノヴァは狭い通りが入り組んだ複雑な造りをしていた。経済が飛躍した16世紀半ば、貴族たちはより快適な新街区の整備を決め、巨匠ガレアッツォ・アレッシとその弟子ベルナルディーノ・カントーネ(特に後者)の設計で1551~83年に全長250m・幅7mのストラーダ・ヌオーヴァが建設された(イタリア独立後にガリバルディ通りに改称)。通りには共和国を代表するパラッツォ・パッラヴィチーニ=カンビアソ、パラッツォ・パンタレオ・スピノーラ、パラッツォ・ドリア=スピノーラ、パラッツォ・バルトロメオ・ロメッリーニといった宮殿群が建設された。

続いて近郊のロメッリニ通り沿いに新たな宮殿群が建設され、さらに1601~18年にかけてバルビ家が西に第2のストラーダ・ヌオーヴァ(現・バルビ通り)を整備した。1778~86年にはふたつのストラーダ・ヌオーヴァを接続する街路としてストラーダ・ヌオビシマ(現・カイロリ通り)が整備された。

貴族たちはカントーネやジョヴァンニ・バティスタ・カステッロといったルネサンスやマニエリスム、バロックの名建築家を集めて街路整備と宮殿建設に励んだ。宮殿は一般的に3~4階建てのコートハウス(中庭を持つ建物)で、広いエントランス・ホールと階段を持ち、中庭をロッジア(柱廊装飾)が取り囲み、内部は彫刻や絵画、フレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)、スタッコ(化粧漆喰)細工で飾り立てられた。代表的な宮殿にはカントーネによるパラッツォ・ドリア、カステッロによるパラッツォ・カッレガ=カタルディ、両者によるパラッツォ・ポデスタなどがある。

17世紀に整備されたバルビ通りではバロック様式による宮殿建設が盛んになり、より豪奢で装飾豊かなデザインが好まれた。代表的な宮殿には建築家バルトロメオ・ビアンコによるパラッツォ・バルビ=セナレガ、ピア・フランチェスコ・カントーネやカルロ・フォンタナらによるパラッツォ・ステファノ・バルビがある。

ジェノヴァの宮殿群は1576年の上院令に基づいて「ロッリ」と呼ばれる迎賓館目録に登録され、賓客をもてなした。その数は16世紀末に約150棟、17世紀には約100棟、18世紀には約200棟に及んだ。ロッリには3つのレベルがあるが、ストラーデ・ヌオーヴェの宮殿群は国王・王子・総督のための最上級のリストに分類された。これ以外に大地主や知事のためのリストなどが存在していた。

17世紀にスペインが没落するとジェノヴァも衰退し、繁栄は終わりを告げた。さらにサヴォイア公国やフランスといった国々との戦いで疲弊し、18世紀末にはナポレオンのフランス帝国に侵略された。ナポレオン戦争の講和会議である1814~15年のウィーン会議でサルデーニャ王国に併合され、ジェノヴァ共和国は消滅した。サルデーニャ王家であるサヴォイア家はパラッツォ・ステファノ・バルビを購入し、王宮=パラッツォ・レアーレとして整備した。

○資産の内容

世界遺産としてはストラーデ・ヌオーヴェとその周辺が地域として登録されており、最上級のロッリに含まれた宮殿群が登録されている。ストラーデ・ヌオーヴェはY字状の3街路からなり、東のカイロリ通り~ガリバルディ通り、西のバルビ通り、南のロメッリニ通り~フォッサテッロ通り~サン・ルーカ通りという3街路の42宮殿が登録対象となっている。登録されている宮殿は(以下、パラッツォは略)、ドリア=スピノーラ、クレメンテ・デッラ・ロヴェレ、ジョルジョ・スピノーラ、トッマソ・スピノーラ、ジャコモ・スピノーラ、ネグローネ、パオロ・バッティスタ・エ・ニコロ・インテリアーノ、パッラヴィチーニ=カンビアソ、パンタレオ・スピノーラ、レルカリ=パロディ、カッレガ=カタルディ、アンジェロ・ジョヴァンニ・スピノーラ、ドリア・オ・ジオ・バッティスタ・スピノーラ、ポデスタ、カッタネオ・アドルノ、ドリア=トゥルシ、バルダッサーレ・ロメッリーニ、ビアンコ、ロッソ、ジェローラモ・グリマルディ、ジオ・カルロ・ブリニョレ、バルトロメオ・ロメッリーニ、ロメッリーニ=ドリア・ランバ、ジャコモ・ロメッリーニ、ベリンバウ、ドゥラッツォ=パッラヴィチーニ、ジオ・フランチェスコ・バルビ、バルビ=セナレガ、フランチェスコ・マリア・バルビ・ピオヴェラ、ステファノ・バルビ(レア-レ)、コズマ・チェントゥリオーネ、ジョルジョ・チェントゥリオーネ、ジオ・バッティスタ・チェントゥリオーネ、チプリアーノ・パッラヴィチーニ、ニコロ・スピノーラ・ディ・サン・ルカ、スピノーラ・ディ・ペッリチェリア、ジオ・バッティスタ・グリマルディ、ジオ・バッティスタ・グリマルディ(前者と同名)、ステファノ・デ・マリ、アンブロージオ・ディ・ネグロ、エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・ネグロ、デ・マリーニ=クローチェの42棟。

代表的なパラッツォとして、まずパラッツォ・ステファノ・バルビが挙げられる。もともとジェノヴァの名門バルビ家が17世紀に建設した宮殿だが、ドゥラッツォ家などの手を経て19世紀はじめにサヴォイア家が購入して王宮=パラッツォ・レアーレとして整備した。ジェノヴァの宮殿でもっとも豪奢なバロック建築として知られ、特に鏡のギャラリーは名高く、当時は高価だった鏡を惜しげもなく使用し、ローマ神話の神々を描いたジェノヴァの巨匠ドメニコ・パロディのフレスコ画やフィリッポ・パロディの彫像等で飾られている。また、絵画のギャラリーはベルナルド・ストロッツィ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ガウッリ、ドメニコ・フィアセッラ、ティントレット、ルカ・ジョルダーノといった名だたる芸術家の作品を収蔵している。庭も広く、八角形の池を中心とした幾何学式庭園でも知られる。

パラッツォ・パッラヴィチーニ=カンビアソは1558年頃にパッラヴィチーニ家の邸宅として建築家ベルナルディーノ・カントーネが設計した宮殿で、画家ルーベンスはここで迎えられて『ニコロ・パッラヴィチーニの肖像』などの作品を残した。また、アンドレアととオッタヴィオのセミノ兄弟の作品『サビニ女性の略奪』や『愛とプシュケー』もよく知られる。建物としてはルネサンス、マニエリスム様式からバロック様式への過渡期にあたる建築で、それぞれの影響が見られる。同宮殿は18世紀にカンビアソ家が購入して現在の名前となった。

パラッツォ・パンタレオ・スピノーラはパラッツォ・ガンバロとも呼ばれるスピノーラ家の宮殿で、1558年頃にジェノヴァ・バロックの第一人者とされるベルナルド・スパツィの設計で建設された。外観はマニエリスムの影響を残すシンプルな造りだが、内部はジョヴァンニ・カルローネとジョヴァンニ・バッティスタ・カルローネの兄弟の見事なフレスコ画をはじめ、美しい装飾で彩られている。

パラッツォ・ポデスタはベルナルディーノ・カントーネとジョヴァンニ・バティスタ・カステッロというふたりの名建築家が設計した宮殿で、16世紀半ばに建設された。スタッコ細工で装飾された豪華なファサードを持ち、内部もマニエリスム様式のスタッコやベルナルド・ストロッツィやドメニコ・パロディ、ジャコモ・ボーニらのフレスコ画で飾られている。

パラッツォ・カッレガ=カタルディも16世紀半ばの建設で、ジョヴァンニ・バティスタ・カステッロが設計を担当した。16世紀に建設されたファサードや玄関ホール、メイン・ホールは主としてルネサンス様式、17世紀に改修された礼拝堂や黄金のギャラリーはバロック様式と、場所によって異なる趣を見せる。黄金のギャラリーはジェノヴァ・バロックの傑作として名高く、ロココ様式の影響も見られる。

パラッツォ・バルビ=セナレガはバルトロメオ・ビアンコの設計で1615~61年頃に建設された宮殿で、特にすばらしい装飾で名高い。宮殿は3階建てのコートハウスで外観は地味だが、内部はバレリオ・カステッロやドメニコ・ピオラ、ジョヴァンニ・アンドレア・カルローネらのフレスコ画で覆われた豪奢なバロック空間となっている。一例がペルセポネ略奪のギャラリーで、最高神ゼウスの娘であるペルセポネが冥界の王ハデスに奪われる物語をフレスコ画や彫刻・スタッコ細工で表している。時間の戦車の間は時を司るクロノス、ヘラクレスの間では英雄ヘラクレスといった具合にギリシア・ローマ神話を題材としており、最後は高潔の美女アリアドネの愛の物語を描いた愛の勝利のギャラリーで終わっている。また、中庭のニンファエウムは泉の精霊ニンフを祀る場所で、ジャン・バッティスタ・バルベリーニの見事な彫刻が見られる。

パラッツォ・ロッソは13世紀以来の歴史を誇るジェノヴァの名門ブリニョーレ家の依頼で建築家ピエトロ・アントニオ・コッラディが1671~77年に建設したバロック様式のコートハウスだ。バロック&ロココ様式の彫刻やスタッコ細工で装飾された中庭と南ファサードのロッジアが特徴で、内装もドメニコ・ピオラとグレゴリオ・デ・フェッラーリのフレスコ画が非常に名高い。また、ブリニョーレ・サーレのギャラリーはブリニョーレ家のコレクションをまとめたもので、数多くのすぐれた絵画が展示されている。宮殿やギャラリーはブリニョーレ家の最後を飾ったガリエラ公爵夫人マリア・ブリニョーレ・サーレ・デ・フェッラーリによって1874年に市に寄贈されている。

■構成資産

○ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度

■顕著な普遍的価値

本遺産はロッリ制度に関連するもので画家ルーベンスとの関係も指摘して登録基準(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていたが、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)はこれらについて登録基準(ii)とより適切に関連し、(vi)は満たさないと判断した。ICOMOSはまた登録基準(i)「人類の創造的傑作」についても検討したが、他の基準でカバーされているとした。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ストラーデ・ヌオーヴェの建造物群と関連の宮殿群は16~17世紀の都市計画と建築の発展に関する重要な価値の変遷を示している。宮殿の絵を調査してまとめた画家ピーテル・パウル・ルーベンスの論文のように、当時の建築論文を通してこれらの作品が公表されたことでストラーデ・ヌオーヴェとジェノヴァの後期ルネサンス様式の宮殿群はヨーロッパのマニエリスムとバロック建築の発展における重要なランドマークとなった。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ジェノヴァのストラーデ・ヌオーヴェは高い建築的価値を誇る貴族の宮殿で構成される都市アンサンブルの顕著な例であり、16~17世紀に全盛期を迎える商業都市ジェノヴァの経済力と政治力を示している。このプロジェクトは1563〜1640年の「ジェノヴァの世紀」を特徴付ける革新的な精神を表しており、1576年にジェノヴァ共和国はもっとも傑出した宮殿を著名なゲストのための公的な宿泊施設として登録するロッリ制度を確立した。

■完全性

資産はルネサンス様式の主要な建造物群とストラーデ・ヌオーヴェのふたつの主要な通り沿いに立つバロック様式の宮殿群を含んでおり、完全性を維持している。ルネサンスの都市改造によって生まれたこのエリアは中世のエリアと統合され、その環境は手付かずで伝えられている。ロッリの宮殿群に加え、資産には中世の住宅や近代の建物など他の歴史的建造物も含まれている。市民劇場のような現代の介入は比較的限定されており、全体的な特徴を乱すものではない。

海洋都市国家としてジェノヴァはつねに港と密接に結び付いていたが、港は17世紀の市壁や19世紀の「大理石のテラス」といったさまざまな施設・設備の仕切りによって何世紀にもわたって都市と隔てられてきた。第2次世界大戦後は高架を走る高速道路が建設され、その障壁となっている。しかし現在、鉄道と倉庫が撤去され、歩行者用に一帯を舗装したことで港と歴史地区のつながりが部分的に再構築された。世界遺産委員会は世界遺産リストへの登録の時点で、宮殿群と海とのつながりを強化するために高速道路のトンネル化を検討するよう要請している。

■真正性

資産はストラーデ・ヌオーヴェの建造物群と中世の構造の一部を含んでおり、中世の都市跡の上に建設されたルネサンスの都市アンサンブルはよく保存されている。このエリアにはロッリのリストに掲載されている、真正性をもっともよく保持しているもっとも代表的な42棟の宮殿が含まれている。

第2次世界大戦中に1棟の宮殿が部分的に損傷したが、ダメージを受けた上部構造はその後再建された。この宮殿とガリバルディ通りのふたつの宮殿は現在、博物館として使用されている。ロッリの宮殿の多くは個人所有であり、家族向けの宿泊・滞在施設として本来の機能を維持している。宮殿の一部はオフィスあるいは商業施設として提供されているが、オーナーは建物の本来の構造と歴史的な真正性を尊重して必要な対応をしている。

特に1990年代から実施された取り組みにより宮殿は調査を受け、その保存状態が確認されて、多くのファサード(正面)とインテリアが慎重に修復された。宮殿は現在良好な状態を保っており、そのコンディションは州当局によってモニターされている。

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