アマルフィ海岸

Costiera Amalfitana

  • イタリア
  • 登録年:1997年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)(v)
  • 資産面積:11,231ha
世界遺産「アマルフィ海岸」、ポジターノ
世界遺産「アマルフィ海岸」、ポジターノの美しい街並み。右のドームはサンタ・マリア・アッスンタ教会
世界遺産「アマルフィ海岸」、アマルフィのアマルフィ大聖堂
世界遺産「アマルフィ海岸」、アマルフィのアマルフィ大聖堂、左は鐘楼
世界遺産「アマルフィ海岸」、アトラーニ
世界遺産「アマルフィ海岸」、アトラーニ。右のドーム建築がサンタ・マリア・マッダレーナ・ペニテンテ協同教会
世界遺産「アマルフィ海岸」、ラヴェッロのヴィッラ・ルフォロ
世界遺産「アマルフィ海岸」、ラヴェッロのヴィッラ・ルフォロの庭園からの絶景 (C) Derbrauni

■世界遺産概要

イタリア南西部カンパニア州に伸びるアマルフィ海岸は山や峡谷が複雑に入り組んだおよそ30kmの海岸線で、断崖を利用して周囲の景観と調和した美しい町々が築かれている。中世のイタリア4大海洋都市国家の一角で、地中海貿易で富を築くと同時に、地中海各地の文化を融合させてユニークで華やかな文化を開花させた。

○資産の歴史

アマルフィ海岸ではエトルリア人以前の時代から集落の存在が確認されており、ギリシア・ローマ時代には風光明媚な土地柄を利用して各地にヴィッラ(別荘・別邸)が建設された。そんな中でアマルフィの街は4世紀、イタリア南部ルカニア地方のローマ植民都市が異民族の攻撃を受け、避難してきた人々によって築かれたといわれる。海上貿易を行う港湾都市として発達し、7世紀にビザンツ帝国(東ローマ帝国)下のナポリ公国の版図に入り、839年に共和国として独立を果たし、958年に公国となった。

中東では7~9世紀にイスラム王朝であるウマイヤ朝やアッバース朝が西アジアから北アフリカ、イベリア半島に至る大帝国を成立させてヨーロッパを挟み込んだ。そんな中でアマルフィはイスラム艦隊と戦い、特に849年のオスティアの戦いではナポリ(世界遺産)などとともに大勝を収めた。

こうした海軍力と海上貿易を利用して発達し、アマルフィは9~11世紀にかけてヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサ(すべて世界遺産)とともに4大海洋都市国家に数えられるまでに繁栄し、イタリア半島の西に広がるティレニア海の貿易を独占した。イスラム教諸国を含む地中海各地と貿易を行い、イタリアからワインや果物・武器・木材・鉄等を輸出し、香辛料や宝石・織物等を輸入して大きな利益を上げた。アマルフィはヨーロッパで最初に羅針盤を使った都市とされ、アマルフィが整備した海商法もヨーロッパ初といわれている。

しかし、11世紀にアマルフィ海岸の西に位置するサレルノ、12世紀にノルマン人が建国したシチリア王国に征服され、1136年にピサとの戦いに敗れると急速に衰退。14世紀に嵐で壊滅的な被害を受けて都市としての立場も失った。

アマルフィ海岸では入り江に港を造り、周辺の断崖にへばりつくように家々が築かれた。坂が急であるため「景色は天国、暮らしは地獄」と評されたが、斜面や段丘を活かしてオリーブやブドウ、レモン、クリの栽培を行い、ヒツジやヤギ、ウシの放牧を行った。

街並みや産業に東洋の影響が随所に見られるのが特徴で、たとえば路地や階段が迷路のように入り組んでいる構造は家並みを城壁(ハウス・ウォール)とするメディナと呼ばれるアラブ旧市街の影響と考えられる。また、アマルフィ大聖堂はロマネスク様式だが、四角柱の鐘楼はミナレット(モスクの塔)、クロイスター(中庭を取り囲む回廊。ペリスタイルが発達したもの)はサハン(モスクの中庭)を思わせ、サラセン・アーチ(イスラム教圏に特有の尖頭アーチ)や連続交差アーチ、白と黒のポリクロミア(縞模様)などはムーア建築(イベリア半島のイスラム教建築)の影響と見られる。アラブの製紙技術を応用したアマルフィ・ペーパーや、イスラム文様アラベスクを模した模様を彫り込んだ寄木細工インタルシオ、やはりアラブの影響が見られるヴィエトリ・スル・マーレのテラコッタ(素焼陶器)はこの辺りの名産品だ。

アマルフィ海岸には海・入り江・峡谷・街・断崖・畑・牧草地・森林・山といった多様な地形があり、西洋から東洋まで多彩な文化の影響が見られる。人と自然の複雑な要素が「世界でもっとも美しい」といわれる類まれな文化的景観を生み出している。

○資産の内容

世界遺産の資産としては約30kmの海岸線が地域で登録されている。海岸はイタリア南部ソレント半島の南岸で、ラッタリ山地が形成するアマルフィ、アトラーニ、マイオーリ、ミノーリという4つの主要な海岸線と、ポジターノ、プライアーノ、セルタリア、ヘラクレスといった小規模な海岸線、さらにスカーラ、トラモンティ、ラヴェッロの山村とコンカ、フローレの集落からなる。これらは中世、アマルフィ共和国・公国の領域だった。

アマルフィ海岸に位置する現在の主なコムーネ(自治体)として、まずアマルフィが挙げられる。約30kmの海岸線のほぼ中央に位置し、伝説ではギリシア神話の英雄ヘラクレスが愛する妖精アマルフィターナの遺体を沈めた場所とされる。アマルフィを代表する建物がアマルフィ大聖堂、正式名称サンタンドレア大聖堂で、6世紀以前から教会堂があったとされる場所に、987年頃にアマルフィ公マンソーネ1世によって創設された。ロマネスク様式のバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)教会堂をベースに時代時代の改修を受け、ノルマン、ゴシック、ルネサンス、バロック、ロココ様式やイスラム教建築といった多彩な様式の影響を反映している。ファサード(正面)は19世紀の建築家エンリコ・アルヴィーノの設計で、イエスと十二使徒を描いた美しいモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)は画家ドメニコ・モレリの作品だ。バロック様式の豪奢なアプス(後陣)やフレスコ画やスタッコ細工で覆われたクリプト(地下聖堂)は名高く、特にクリプトはイエスの十二使徒のひとりでアマルフィの守護聖人でもあるアンデレの遺骨を入れたレリカリー(聖遺物箱)を収めている。この聖遺物は1202~04年の第4回十字軍後にコンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)から持ち込まれたものとされる。隣接するアマルフィ教区美術館(大聖堂付属美術館)はかつて大聖堂の一部だった建物で、17世紀にクロチフィッソ教会(十字架教会)として独立した。見所は13世紀に築かれた天国のクロイスターで、アラブ・ノルマン様式の連続交差アーチで囲われた中庭が特徴的だ。これ以外に、海に突き出した岬の断崖上に位置しフランシスコ会の聖フランチェスコが13世紀に創設したと伝わるサンタントニオ教会・修道院、アマルフィを見下ろす山上に位置するツィロ塔など数多くの歴史的建造物が見られるほか、周囲の畑では特にレモンの栽培が盛んで、名産のレモン・リキュールであるリモンチェッロの生産が行われている。

ポジターノは資産のほぼ東端に位置するコムーネで、伝説では海の神ポセイドンが妖精パジテアに贈った街と伝えられる。断崖絶壁に張りついた家々の姿が美しく、アマルフィ海岸の景観の象徴とされる。ローマ時代以来のリゾートで、同時代から18世紀のバロック時代まで数々のヴィッラが築かれた。10世紀頃から修道院や教会堂が建設され、15~17世紀には大きな市場が開かれて商業港としてアマルフィを超えるほどに繁栄した。サンタ・マリア・アッスンタ教会は10世紀頃の創建と伝わる教会堂で、ベネディクト会の修道院とともに建設された。現在のバロック様式の建物は1777~82年に再建されたもので、ラテン十字形・三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)の教会堂で十字の交差部にマヨルカ焼きで彩られた巨大な長球ドームを冠している。バロック様式の主祭壇に掲げられた13世紀の作品と伝わる黒い聖母像は有名だ。この教会堂の再建中に紀元前1世紀頃のものと見られるローマ貴族のヴィッラの遺構が発見された。この場所は現在、ローマ考古学博物館となっており、ローマ時代の見事なフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)やキリスト教会堂の遺構などが公開されている。ポジターノからは「神々の道」と呼ばれる遊歩道が走っており、世界でもっとも美しいハイキング・コースのひとつと讃えられている。

コンカ・デイ・マリーニはアマルフィとポジターノの間に築かれたコムーネで、エトルリア人の時代から漁港が成立していたと見られる。アマルフィの交易拠点のひとつとして発達し、アマルフィ衰退後も交易や農業・絹織物産業・林業などで栄えた。断崖下の港と断崖上のサン・ジョヴァンニ・バティスタ教会やサン・パンクラツィオ殉教者教会、サンタ・マリア・ディ・グラード教会といった歴史ある教会堂が海と山によく映えた美しい町で、エメラルド洞窟と呼ばれる鍾乳洞もよく知られている。岬に築かれた町のランドマークがカポ・ディ・コンカ塔で、オスマン帝国の襲来の備えて16世紀に建設された。

アマルフィの西に隣接するアトラーニはイタリア最小のコムーネで、断崖に囲まれた小さな峡谷に築かれている。ローマ時代以来の別荘地で、古代の町はポンペイ(世界遺産)を壊滅させた79年のヴェスヴィオ山の噴火で火山灰や瓦礫の下に埋もれた。中世には堅牢な要塞が建設され、数々のヴィッラが築かれた。10世紀にアトラーニから大司教が輩出されると数多くの修道院や教会堂・礼拝堂が建設された。サン・サルヴァトーレ・デ・ビレクト教会はビーチに面したウンベルト1世広場に位置する中心的な教会堂で、10世紀に創建された。海岸沿いの断崖に立つサンタ・マリア・マッダレーナ・ペニテンテ協同教会は13世紀に中世の要塞跡に築かれた教会堂で、16~18世紀の間に数度の改修を受けて主としてバロック様式となった。マヨルカ焼きのタイルで装飾されたドームやユニークな鐘楼で知られ、ロココ装飾は「アマルフィ唯一のロココ様式」といわれる。アマルフィとアトラーニを分ける断崖に立つツィロ塔の下には聖人の洞窟があり、内部はビザンツ様式のフレスコ画で彩られている。

スカーラはアトラーニの北の山中に位置するコムーネで、4世紀にコンスタンティノープルに向かったローマ船が難破して乗組員が創設したと伝わる。中世にはスカーレ・マイオリス要塞、スカレッレ要塞というふたつの要塞が建設され、ラヴェッロとともにアマルフィ海岸を守る陸の要衝となったが、アマルフィの衰退でその役割を終え、同時に衰退した。12世紀創建のサン・ジョヴァンニ・バティスタ教会やバロック様式のスカーラ大聖堂(サン・ロレンツォ大聖堂)など数々の教会堂があるほか、名産であるクリの栽培や標高約400mから見下ろすティレニア海の眺望の美しさで知られる。

ラヴェッロはスカーラの東に位置するコムーネで、断崖上にあって海岸線を持たないが、海岸を一望する絶景で知られる。ローマ帝国滅亡後にゲルマン系諸民族の侵入から逃れるために避難民が建設したと伝わる。羊毛業を中心に発展したが、1136年にピサとの戦いに敗れて破壊され、人口の多くがナポリに流出して衰退した。主な建物には、11世紀創建のロマネスク建築で後にバロック様式のファサードに改修されたラヴェッロ大聖堂(サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂)や、13世紀ロマネスク様式のサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会、11世紀に創建されサレルノ湾を見渡す「無限のテラス」が名所のヴィッラ・チンブローネ、13世紀創設のヴィッラで海を見下ろす幾何学式庭園で知られるヴィッラ・ルフォロなどがある。

ミノーリはラヴェッロの東に位置するコムーネで、アマルフィ海岸らしい断崖と峡谷・港で知られる。ローマ時代に貴族の別荘地となり、7世紀頃にはアマルフィの主要港のひとつとして整備された。アマルフィ衰退後も港湾都市としてありつづけ、海賊やオスマン帝国などの襲来に備えて塔や城壁・防波堤などを整備して要塞化を進めた。ヴィッラ・ロマーナは1世紀のローマ遺跡を中心とした博物館で、遺構やフレスコ画、アンフォラ(陶器の壺)などの遺物を見学することができる。パラディソ塔は16世紀に建設された監視塔で、当時もっとも高い建物だった。これ以外にアンヌンツィアータ塔やメザカポ城などの遺構が残されているが、城壁は嵐で完全に破壊された。ミノーリはまた、7世紀に異教徒との結婚を拒否して父親に殺害され、壺に入れて海に捨てられた聖トロフィメナの遺体が上がった場所とされ、その聖遺物を祀るためにサンタ・トロフィメナ教会が建設されたという。現在の歴史主義様式の建物は18~19世紀に再建されたもので、ラテン十字形で交差廊に八角形のドームを冠している。

トラモンティはその名が「山の中」を意味するように山中に位置するコムーネで、ローマ時代以前から村が築かれていたようだ。モンタルト城はアマルフィの陸路の防衛拠点となり、12世紀にはこの城が抜かれてノルマン人の侵略を許した。レモンやブドウ、クリの名産地として知られ、現在も町の周囲には農場が広がっている。主な建物にはモンタルト城の他に、15世紀に建設されたサンタ・マリア・ラ・ノヴァ城と同名教会、15世紀創設と見られるフランシスコ会の修道院であるポルヴィカのサン・フランチェスコ修道院、古代の要塞跡に建設された教会堂でバロック画家ルカ・ジョルダーノの祭壇画で知られるサンタ・マリア・アッスンタ教会などがある。

マイオーリはミノーリの東に位置する海岸沿いのコムーネで、広いビーチと港で知られる。エトルリア人あるいはローマ人によって切り拓かれた町で、中世にアマルフィの都市連合に参加して共和国・公国の一部となった。強力な要塞や塔に守られた海軍基地があり、アマルフィ衰退後も漁業や農業・工芸品などの産業で都市としてありつづけ、17世紀にはスペインの王立都市として認められた。9世紀に山上に築かれたサン・ニコラ・デ・トロ=プラノ城はマイオーリの防衛拠点で、15世紀には城壁が拡張されて砲台が設置された。岬に築かれたノルマン塔はサリチェルキオ塔とも呼ばれる堅固な監視塔で、現在はレストランが営業している。サンタ・マリア・ア・マーレ協同教会は13世紀にマイオーリを見晴らす断崖上に築かれたラテン十字形の教会堂で、19世紀に建築家ピエトロ・ヴァレンテによってバロック様式で改修され、マヨルカ焼きのタイルで覆われた美しいドームが据え付けられた。

チェターラは深い峡谷に長く伸びた港湾都市で、9世紀にはイスラム教勢力が拠点を置いていた。その名がラテン語で「大きな魚を売る魚屋」を意味するように漁業が盛んな町で、魚市場でマグロやカタクチイワシなどが取引された。16世紀にオスマン帝国の侵略を受け、人々は虐殺されたり奴隷として売り払われ、生き残った者の多くはナポリなどに移住した。名産はアンチョビで、北アフリカへの遠洋漁業でカタクチイワシを塩漬けして持ち帰ったことに由来する。ランドマークは16世紀に築かれたチェターラ塔で、フレスコ画で知られるサン・フランチェスコ修道院やアマルフィ以前からの歴史を誇るサン・ピエトロ・アポストロ教会などが知られる。

ヴィエトリ・スル・マーレは資産の西端に当たるコムーネで、1806年まで北に位置するカーヴァ・デ・ティレーニに含まれていた。ギリシア・エトルリア時代からの港町で、ローマ時代には別荘地としてヴィッラなどが建設された。アマルフィの時代には玄関口となり、商業港として栄えた。名産はアラブの影響を受けたカラフルなマヨルカ焼きで、同地の教会堂や住宅を彩った。代表的な建物がサン・ジョヴァンニ・バティスタ教会で、11世紀以前の創建といわれ、17世紀にルネサンス様式で再建された。ラテン十字形でマヨルカ焼きタイルで飾られたカラフルなドームを冠しており、ファサードのバラ窓の聖アンデレ像や高さ36.5mの鐘楼の頂部のドームもやはりマヨルカ焼きで彩られている。建築家パオロ・ソレリが第2次世界大戦後に築いた製紙場であるソレリ宮殿や、陶器工場であるソリメーネ宮殿、陶器の歴史や名品を集めた州立陶磁器博物館など、産業に関する見所が多い。

■構成資産

○アマルフィ海岸

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

古代のギリシア・ローマ、中世のキリスト教ロマネスクやノルマン、西アジアからイベリア半島に至るイスラムと多彩な文化の交流の跡が見られる。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

アマルフィの大聖堂や街並みに代表されるように、古代から中世、西洋から東洋まで、多様な歴史的発展と文化的要素を伝える建造物や景観が見られる。

○登録基準(v)=伝統集落や環境利用の顕著な例

漁業や農業・牧畜から小川を利用した紙漉きまで、ダイナミックな地形を活かした生活スタイルが伝えられており、景観と調和した見事な伝統集落が残されている。

■完全性

資産は海岸から高山まで広大なエリアに広がり、人の手の入っていない森林などにも及んでおり、アマルフィの歴史を伝える文化的景観をすべて包含している。

■真正性

アマルフィの衰退後は道路もない陸の孤島となり、小さな集落群でしかなかった。大きな開発は行われず、おかげで中世の街並みがそのまま残された。道路が整ったのは19世紀に入ってからで、その後は高級リゾートとなり、早くから法的保護を受けた。観光開発も最小限で、建物や景観は高いレベルで維持されており、真正性は保たれている。

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