ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域

Archaeological Areas of Pompei, Herculaneum and Torre Annunziata

  • イタリア
  • 登録年:1997年
  • 登録基準:文化遺産(iii)(iv)(v)
  • 資産面積:98.05ha
  • バッファー・ゾーン:24.35ha
世界遺産「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」、ポンペイのフォルムの列柱廊跡。背後の山はヴェスヴィオ山
世界遺産「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」、ポンペイのフォルムの列柱廊跡。背後の山はヴェスヴィオ山
世界遺産「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」のポンペイ、パン屋のパン焼き釜と小麦をひくための石臼
世界遺産「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」のポンペイ、パン屋のパン焼き釜と小麦をひくための石臼
世界遺産「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」、手前は大テアトロ、奥は剣闘士兵舎
世界遺産「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」、手前は大テアトロ、奥は剣闘士兵舎 (C) Sylvhem
世界遺産「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」、ポンペイの貝殻のウェヌスの家、槍と盾を持つマールス神のフレスコ画
世界遺産「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」、ポンペイの貝殻のウェヌスの家、槍と盾を持つマールス神のフレスコ画
世界遺産「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」のヘルクラネウム全景、背後はヴェスヴィオ山
世界遺産「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」のヘルクラネウム全景、背後はヴェスヴィオ山
世界遺産「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」、ヘルクラネウムのネプトゥヌスとアンフィトリテの家のモザイク画
世界遺産「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」、ヘルクラネウムのネプトゥヌスとアンフィトリテの家のモザイク画

■世界遺産概要

イタリア半島南西部カンパニア州に位置するローマ時代の都市遺跡で、西暦79年に起きたヴェスヴィオ山の大噴火によって火砕流や火山灰に埋もれた商業都市ポンペイ、港湾リゾート・ヘルクラネウム(現・エルコラーノ)、別荘地オプロンティス(現・トッレ・アンヌンツィアータ)の3つの遺跡群が登録されている。

○資産の歴史

ポンペイは紀元前8世紀以前からの古都で、同世紀中にギリシア人の植民都市が築かれた。マグナ・グラエキア(南イタリアのギリシア勢力圏)の港湾都市として発達し、ギリシア人やフェニキア人が地中海交易を行った。紀元前6世紀には城壁を築いて城郭都市となり、エトルリア人が定着してアポロ神殿を建設した。紀元前3世紀に共和政ローマと同盟を結び、紀元前3~前2世紀のポエニ戦争で活躍したことから都市としての地位を高めた。紀元前91~前87年の同盟市戦争ではローマ市民権を求めて反ローマ側で参戦するも敗北。しかし、同世紀中に市民権が与えられ、ローマに組み込まれた。ポンペイは港湾都市であるだけでなく、一帯の中心都市ネアポリス(現在のナポリ。世界遺産)から約20kmと近く、またイタリア半島南部を縦断するアッピア街道も遠くなかったことから交通の要衝となり、商業で発展して人口は1万~2万に達した。

オプロンティスはポンペイのすぐ西に隣接する場所でもともと農場だったが、やがて貴族の別荘地として数々のヴィッラ(別邸・別荘)が建設された。一方、ヘルクラネウムはポンペイの西12kmほどに位置する港で、半神半人の英雄ヘラクレスが設立したという伝説からその名が付いた。エトルリア人やギリシア人が町を切り拓き、ローマ時代にはポンペイやネアポリスの富裕層が豪華なヴィッラを建設して人気のリゾート地となった。

79年8月24日の午後、標高1,281mのヴェスヴィオ山が大噴火を起こす。噴煙は上空30kmに及び、巨大な火山弾が降りそそぎ、高温の有毒ガスと火砕流が時速100kmを超えるスピードで山麓を襲った。南東10km以内に位置するポンペイやオプロンティスは厚さ5~6mにもなる火山灰に覆われ、約2,000人が命を落とした。ただ、大規模な前兆があったと見られ、大半の市民は退避していたと考えられている。ヘルクラネウムは地形と風向きのおかげで当初は被害を免れていたが、まもなく火砕流や泥流に飲み込まれて消滅した。ポンペイやヘルクラネウムはやがて人々の記憶から忘れ去られ、1,700年以上にわたって封印された。

周辺では時おり古代の遺物が発見されていたようだが、都市遺跡が明確に認識されたのは18世紀に入ってからだ。1709年、エルコラーノで井戸を掘っていた農民が深さ20mの地下から大理石柱を発見する。こうした発見を受けて1738年にエルコラーノ、1748年にポンペイの発掘調査が行われ、驚くほど状態のよい古代遺跡が姿を現した。

町は一瞬で火砕流や火山灰に覆われたため街並みや建造物から日用品・美術品に至るまで当時のままの状態で保存され、分厚い地層がそれらを劣化から守っていた。また、炭化した植物や食料が見つかり、犠牲者の遺骨も発見された。ポンペイでは人間やイヌの遺体は火山灰の中で腐敗して消滅し、空洞となって残された。こうした空洞に石膏を流し込んで石膏像を作ることで人々の表情まで再現された。子供をかばって伏せる母親、手を伸ばして助けを求める男性、もだえ苦しむイヌといった石膏像が制作され、最期の瞬間が明らかにされた。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は7件で、ポンペイの資産が「ポンペイ」「秘儀荘」、ヘルクラネウムが「ヘルクラネウム」「パピルスの家」「ヘルクラネウム劇場」、オプロンティスが「トッレ・アヌンツィアータのヴィッラA」「トッレ・アヌンツィアータのヴィッラB」となっている。

ポンペイは約3.2kmの城壁に囲まれた城郭都市で、石を敷き詰めたプラットフォーム上に築かれた。マリーナ門をはじめ7~8基の門を持ち、他のローマ都市と同様に東西に伸びるデクマヌス・マクシムスと南北に伸びるカルド・マクシムスというメインストリートを中心に、方格設計(碁盤の目状の整然とした都市設計)の街並みが展開していた。中心はフォルム(公共広場)で、周辺にはアポロ神殿、ユピテル神殿(ジュピター神殿)、ウェスパシアヌス神殿、ウェヌス神殿(ヴィーナス神殿)、フォルトゥナ・アウグスタ神殿、ポンペイ守護神ラリ・プープリチの聖域、マケルム(市場)、バシリカ(集会所)、コミチウム(民会場)、エウマキア館、フォルム浴場といった神殿や公共施設が立ち並んだで。ポンペイ最古の建物のひとつとされるのがユピテル(ギリシア神ゼウス)の息子アポロ(同アポロン)に捧げられたアポロ神殿で、創建は紀元前6世紀でローマ以前にさかのぼる。神像は失われたが、大理石の祭壇や柱が残っている。フォルム浴場は男女別のテルマエ(浴場)で、水浴室・温浴室・サウナ室などの施設があり、フレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)やスタッコ(化粧漆喰)といった見事な装飾も残されている。

もうひとつの重要な広場がトリアンゴラーレ広場(三角広場)で、周囲にはドリコ神殿(ドーリア神殿)、イシス神殿、アスクレピオス神殿、パライストラ(屋内運動施設・体育学校)、大小のテアトルム(ローマ劇場)、剣闘士兵舎などが集中している。豊穣の女神イシスに捧げられたイシス神殿は紀元前2世紀の建設と見られ、ふたつの祭壇や美しいフレスコ画が残されている。

これ以外に代表的な公共施設として、アンフィテアトルム(円形闘技場)が挙げられる。紀元前70年前後の建設と、ローマが築いたアンフィテアトルムの中でもっとも古く状態のよいもののひとつで、収容人数は約2万人を誇る。スタビアーネ浴場は総合浴場施設で、テルマエやパライストラ、プールなどさまざまな施設・設備を備えていた。娼館はいわゆる売春宿で、ポンペイには25軒以上が確認されており、一部の壁面には性的な営みを表したエロティックなフレスコ画が描かれている。城外にはネクロポリス(死者の町)が広がっており、数多くの墓が立ち並んでいる。

民間の施設としては、レストラン、バー、パン屋、洋菓子屋、羊毛の紡績・織布・染色工場、旅館や倉庫などがあり、パン屋だけで30軒以上が発見されている。住宅としては、チチェローネ邸、ティトゥス・シミニウス・ステファヌス邸、ジュリア・フェリーチェ邸といった豪邸から民間の住宅まで数多くの遺構が残されており、一部にはフレスコ画やモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)、彫刻などの装飾が残されている。

構成資産のひとつである秘儀荘(ヴィッラ・デイ・ミステリ)はポンペイの城壁の北西350mほどに位置するヴィッラで、ギリシア神話の酒と酩酊の神ディオニュソス(ローマ神話のバッカス)に捧げる儀式が行われていた。紀元前2世紀頃の建設と見られ、ポンペイ・レッドと呼ばれる赤を基調としたフレスコ画はポンペイに残るフレスコ画の中でも最高傑作のひとつとして知られる。

ヘルクラネウムもポンペイ同様、フォルムを中心に東西のデクマヌス、南北のカルドで整然と区画された都市で、周囲を城壁に囲われており、およそ5,000人ほどが暮らしていた。発見された遺体は300体ほどで、多くの住民は逃げることができたと見られる。特徴的なのは、ポンペイでは焼失した木材部分が残されている点で、炭化したテーブルやバルコニー・梁・食料品・遺骨などが出土している。ポンペイほど巨大な建造物はないが、フレスコ画やモザイク画の状態もよく、建物はよりリアルに再現されている。代表的な施設には、ヘラクレスをはじめとする神々のフレスコ画や彫像が残るノニアーナ・バシリカ、種々の浴室とフレスコ画が残るスブルバーネ浴場、パライストラなどを備え多数のフレスコ画・モザイク画・スタッコ細工で彩られたフォルム浴場などが挙げられる。住宅もポンペイより小さいが、内装については洗練されているものが多い。一例がヘルクラネウム最大の邸宅でペリスタイル(列柱付きの中庭)や菜園・浴場・プール等を備えたアルベルゴの家、その名の通り木製の仕切りや動物のフレスコ画が残る木製仕切りの家、幾何学的なモザイク画や美しいフレスコ画が残るモザイクのアトリエの家、巨人アルゴスのフレスコ画から命名されたアルゴスの家、2階建てで集合住宅のような造りを持つ二百年祭の家、男女の海神を描いたモザイク画で知られるネプトゥヌスとアンフィトリテの家だ。

構成資産のひとつに数えられているヘルクラネウム劇場は約2,500人を収容する半円形のテアトルム(ローマ劇場)で、観客席を多数のアーチで支えた高度な構造を誇る。パピルスの家(ヴィッラ・デイ・パピリ)は1,800巻以上のパピルス文書が発掘されたことから名付けられた邸宅だ。他にない文書も数多く、ギリシア・ローマ時代の文化を知る貴重な資料となっており、炭化したものは赤外線スキャンやX線スキャンといった最先端の非破壊的な解析技術を駆使して解読が進められている。

オプロンティスはポンペイ隣接の別荘地で、これまでにポッパエア邸(ヴィッラ・ディ・ポッパエア)、ルキウス・クラッシウス・テルティウス邸(ヴィッラ・ディ・ルキウス・クラッシウス・テルティウス)、カイオ・シークリ邸(ヴィッラ・ディ・カイオ・シークリ)、執政官マルコ・クラッソ・フルージの浴場などが発掘されている。ポッパエア邸はヴィッラAと呼ばれていた遺構で、ローマ皇帝クラウディウスやネロの所有と見られ、ネロの皇妃ポッパエア・サビナの奴隷の名が書かれたアンフォラ(陶器の壺)の破片が発見されたことから命名された。ペリスタイル、アトリウム、応接室、玄関、キッチン、食堂、プール、浴場、トイレ、庭園といった多彩な施設を持ち、トロンプ・ルイユ(騙し絵)を用いた窓やヘラクレス像をはじめ、さまざまな絵柄のフレスコ画で飾られている。ルキウス・クラッシウス・テルティウス邸はヴィッラBと呼ばれる遺構で、大商人ルキウスの別荘と見られるが、規模的にはポッパエア邸よりはるかに小さいものとなっている。倉庫に約400ものアンフォラと炭化した大量のザクロが発見されたことから、農業と商業に関わっていたものと考えられている。金・銀・エメラルドなどの宝石やコインなど貴重な遺物も発掘されており、ある一室からは54人もの犠牲者の遺骨が発見された。

■構成資産

○ポンペイ

○秘儀荘(ヴィッラ・デイ・ミステリ)

○ヘルクラネウム

○パピルスの家(ヴィッラ・デイ・パピリ)

○ヘルクラネウム劇場

○トッレ・アヌンツィアータのヴィッラA(ポッパエア邸/ヴィッラ・ディ・ポッパエア)

○トッレ・アヌンツィアータのヴィッラB(ルキウス・クラッシウス・テルティウス邸/ヴィッラ・ディ・ルキウス・クラッシウス・テルティウス)

■顕著な普遍的価値

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

ポンペイとヘルクラネウムの遺跡は火山灰や火砕流によって守られた稀有な都市遺跡であり、ローマ時代の文化をいまに伝える他に類を見ない遺跡である。特にオプロンティスの別荘群にはローマ時代の最高峰の壁画が残されている。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ポンペイ、ヘルクラネウムおよびオプロンティスの遺跡は都市・建築・装飾・日用品を通して紀元前1~後1世紀におけるローマ市民の生活の全体像を提供している。特にオプロンティスのポッパエア邸はローマ時代の最重要の別荘建築である。

○登録基準(v)=伝統集落や環境利用の顕著な例

ポンペイ、ヘルクラネウムおよびオプロンティスはローマ入植地の都市と郊外の卓越した遺跡であり、79年のヴェスヴィオ山噴火当時のローマ人の生活の様子を鮮やかかつ生々しく伝えている。

■完全性

火山の噴火によって誕生した考古学的遺跡であり、その完全性と規模において世界的に類を見ないものである。ポンペイ、ヘルクラネウム、オプロンティスの3件の構成資産は十分なサイズがあり、顕著な普遍的価値を表現するために必要な特徴を含んでいる。ただし、ヘルクラネウムについては18世紀に築かれたトンネルを通じて発見された劇場跡やもっとも重要な公共施設の大部分がまだ現在のエルコラーノ市街の地下に眠っているため、若干の範囲変更によって完全性は改善される。

個々の構成要素と古代の都市構造は全体的に良好な状態にあり、都市計画・建造物群・区画は損なわれていない。本来の都市インフラは部分的にしか復元できず、当時の排水設備や屋根なども十分に復元できないため劣化はつねに進んでおり、一部の建造物は倒壊あるいは装飾の消失といったリスクに直面している。このような広大な面積が露出している遺跡では継続的で繰り返しのメンテナンスが不可欠である。

■真正性

最初の発見以来、発掘・保存・強化・修復および保守作業は3つの遺跡の重要な遺稿にさまざまな強度で実施されてきた。これらの遺跡は過去2世紀にわたる考古学の実践方法・保存技術および表現手段の進化の様子を示している。1980年代以前の修復ではコンクリートや鋼鉄といった材料を使用したり建物の再建が行われたが、今日では異なったアプローチが取られており、より永続的な技術と素材が導入されている。21世紀の保全アプローチは一般的に真正性を維持する方向に変わっている。保全活動では単一の建物に集中するのではなく古代都市の全域に焦点を当て、全体としてより統一的で均質な結果を目指している。その成果もあり、初期の修復と再建の特性・品質にもかかわらず個々の建造物と都市および郊外の構造の真正性は全体的に非常に高く保たれている。

■関連サイト

■関連記事